めざせ別府八湯カリスマ!別府八湯検定試験傾向と対策(歴史)
 第一回検定試験の問題を検討しながら出題の傾向を見ていくことにしよう。出題者にURA初代名人が係る以上は、問題の水準の維持はされるだろうし、別府八湯検定の目的を踏み外した問題は無い物と思える。

 既出問題を基にして関連問題を検討してみよう。

■問2 歴史(年号、旧跡などを含む)に関する問題である。これに答えてみよう。
1.伊予風土記では、別府を何の湯と称しているか。

@豊後 A朝見 B別府 C速見 D流川

 伊予風土記は別府温泉の古称である速見から速水の湯という存在を指摘している。

 道後温泉の成立の話として道後の湯は大国主命 が少彦名命を蘇生させるため伊予から下樋を通して速見の湯を得て、この湯に少彦名命を浸して生き返らせたという。

 なお、豊後風土記の速見郡の項にに赤湯泉、玖倍理(くすぶり)湯の井の記載がある。現在の血の池地獄や鉄輪温泉等の湯煙のくすぶる様子を表していると言われる。


2.別府という地名の語源は何か。

@隠田百姓村 A宿場町 B荘園 C陣屋 D門前町

 別府周辺は速見郡敵見郷(アタミ、熱海)と呼ばれ、温泉湧出を表している。この地が後に宇佐神宮の荘園に属して竃荘、石垣荘、朝見郷に分れ、さらに石垣荘の南部が新たに開墾されて本荘の官省符とは別の免符を受けた別符、つまり平安末期頃に別府が成立した。

 このように別府というのは一般的な呼び名で特に九州には多くあるが、今は別府といえば泉都別府だろう。


3.豊後の守護大名に任命された大友能直の一行(諸説あり)が、1196年に上陸したと言われる海岸はどこか。

@大分 A亀川 B日出 C別府 D浜脇

 1196(建久7)年に豊後守護大名大友能直(よしなお)の一族が浜脇に上陸したと伝えられ、その後400年間に亘って一帯を支配した。

 浜脇には大友館が造られ、大友宗麟が浜脇温泉に入湯したという伝説が残されている。しかし大友方は1600(慶長5)年の石垣原の合戦で徳川方に敗北し没落した。


4.浜脇駅が東別府駅と改称したのは、何年か。

@1934(昭和9)年 A1935(明治10)年 B1940(明治15)年 C1941(昭和16)年 D1930(昭和5)年

 昭和9年4月15日に浜脇駅を東別府駅と改称、この月より夜行貨物列車が運行した。ちなみに鉄道関係では1911(明治44)年7月16日に亀川・別府・浜脇駅が開業し平成23年は開業100周年を迎えた。


5.1507(永正4)年、釈了意(しゃく りょうい)が開基したと言われる寺院はどこか。

@永福寺 A宝満寺 B西法寺 C西念寺 D海門禅寺

 別府で寺院といえば直ぐに頭に浮かぶのは鉄輪温泉の湯掛け祭りで有名な捨聖と呼ばれた一遍上人の温泉山永福寺(湯滝山松寿寺)で県内唯一の時宗の寺院。上人は1276(建治2)年にこの地を訪れたという。

 宝満寺といえば別府で一番開基の古い寺とも言われる天台宗の宝籠山宝満寺、寺伝によれば718(養老2)年、国東の六郷満山を開いた仁聞菩薩が建立したといわれている。

 西法寺は、設問の通り1507(永正4)年に」釈了意が開基したと言われる浄土真宗本願寺派の寺院。西法寺みちと呼ばれるのは小倉街道で往時は交通の要衝であった。

 西念寺は、1501(文亀元)年に正念が開基の浄土真宗本願寺派の寺院。鐘楼門が有名であり白壁が美しい。

 海門禅寺は、海門寺温泉に通う身としてはお馴染みの「しぐれ松の海門禅寺」だ。由来記によれば当初は別府湾に没したといわれる瓜生島に並ぶ久光島に在り久光山海門寺といった。慶長年間に島(半島)が没した後、府内の雷州禅師が元禄年間に現在地に移し、貞亨年間に宝生山海門寺と改めたという。

 この海門寺について、海門寺路について記しておく、別府の豪商・煙草屋主人の荒金義八郎は1862(文久2)年に「所用留を書き記し、「流川下流一帯見取り図」を作成した。この地図には、流川、海門寺みちが描かれている。海門寺みちは、流川から海門寺に至る通りで、途中、妙見山と言われる森があった。昭和戦前までは、寂しげな場所だったらしい。ここが今の裏銀座通りのことであり歴史ある通りなのだ。

 実相寺も入れておこう。この宝泉山実相寺は、1600(慶長5)年の石垣原合戦で焼失し、延宝のはじめに肥前佐賀の僧、即現禅師が当地に移したといわれている。 当時は実相山宝泉寺と号していたが、1682(天和2)年、豊後森藩主久留島家の菩提寺である安楽寺の第7世茂林禅師が開山となり、享保年間に現在の山号に改めた。江戸時代には別府のほとんどが幕府領であったが、鶴見村は14000石の小藩、森藩の飛地であった。


6.1871(明治4)年、別府港が完成した。当時の県知事は誰か。

@井上馨 A森下景端 B松方正義 C広瀬淡窓 D帆足万里

 1868(慶応4)年から1871(明治4)年の大分県誕生までは別府は日田県であった。初代日田県知事の松方正義は管内の視察を終えた後、別府には港を整備し海上交通の便を図れば発展する可能性があるとの発案から港の整備を行った。

 ちなみに1871(明治4)年11月14日から大分県。


7.伊能忠敬が別府に来て測量をしたのは江戸時代のいつの時期か。

@寛政 A文政 B天保 C安政 D文化

 伊能忠敬は1810(文化7)年に九州の地理測量を行う際別府でも測量を行った。また翌年文化8年正月に再び別府を訪れている。


8.大阪商船が1911(明治44)年に竣工したホテル名は何か。

@亀の井ホテル A鶴見園ホテル B別府ホテル C別府温泉ホテル D別府八湯ホテル

 1911(明治44)年9月 大阪商船により別府町野口原に別府ホテルが開業。(のちに満鉄療養所となる)

 1911(明治44)年10月 亀の井旅館が開業。


9.別府、浜脇両町が合併して、別府町になったのは何年か。

@1875(明治8)年 A1900(明治33)年 B1906年(明治44)年 D1924(大正13)年

 以下に明治以降の自治体の推移を記載する。 

 1893(明治26)年 別府、浜脇の両村が町に昇格。 

 1906(明治39)年 別府町と浜脇町が合併して別府町となる(初代町長・日名子太郎、助役・高橋欽哉)。

 1924(大正13)年 市制施行し別府市となる。大分県理事官大木俊輔が別府市長職務管掌の任にあたる。別府市の人口36,276人。

 1935(昭和10)年 亀川、朝日村、石垣村が別府市と合併。別府市の人口62,346人

 1956(昭和31)年 日出町・挟間町・南端村の一部が別府市に編入する。


10.1935(昭和10)年に合併したのは、別府市と亀川町、石垣村と何村か。

@浜脇村 A東山村 B鉄輪村 C朝日村 D豊岡村

 9.の年表の通りであるが、上記の鉄輪村という名は如何にも有りそうだが、1889(明治22)年の町村制施行時には、別府温泉は別府村、浜脇温泉は浜脇村と、此処までは温泉と同じ名前だが、観海寺温泉と堀田温泉は石垣村で明礬温泉と鉄輪温泉は朝日村に含まれて柴石温泉と亀川温泉は御越村であった。

 ちなみに、大正の中頃までは、北由布村の湯布院温泉と塚原温泉を含めて、別府十湯とも呼ばれていた。

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