めざせ別府八湯カリスマ!別府八湯検定試験傾向と対策(産業)
 第一回検定試験の問題を検討しながら出題の傾向を見ていくことにしよう。出題者にURA初代名人が係る以上は、問題の水準の維持はされるだろうし、別府八湯検定の目的を踏み外した問題は無い物と思える。

 既出問題を基にして関連問題を検討してみよう。

■問3 産業(交通、道路などを含む)に関する問題である。これに答えてみよう。
1.現在の西法寺通りは江戸時代の何街道か。

@大分 A小倉 B別府 C日田 D国東

 西法寺は旧国道(小倉街道)である西法寺通りに面する名刹。釈了意(しゃく りょうい)が、戦国時代の1507(永正4)年に開基したと言われる。

 小倉街道の名が別府で目に付くが、県外の人間から見れば小倉〜中津は中津街道、中津から別府経由で宮崎日南を超え鹿児島に至る日向街道という呼び方が一般的で有ると思う。


2.1873(明治6)年、初めて別府港に着港した木造蒸気船・益丸の会社名は何か。

@瀬戸内開商社 A別府開商社 B大分開商社 C阪神開商社 D大阪開商社

 1873(明治6)年5月30日、大阪開商社が蒸気「益丸」の定期航海を始め、日名子太郎に回漕業務を委託する。

 1883(明治16)年、岡山開行舎が、「運輸丸」「幸運丸」 の2隻の外輪船を就航させる。

 1884(明治17)年、大阪商船株式会社(後の関西汽船株式会社)設立。別府−大阪間に航路(阪神航路)を開く。

 1885(明治18)年、宇和島運輸株式会社創立、「第一宇和島丸」が就航する。この頃から、別府で客馬車が走りはじめる。

 1887(明治20)年、宇和島運輸会社の「第二宇和島丸」が就航する。

 1912(明治45/大正元)年、大阪商船は700トン級の商船「紅丸」(くれないまる)を別府−大阪間に就航。


3.1873(明治6)年、日名子太郎が別府で初めて開いた事業は何か。

@ホテル Aレストラン Bダンスホール C船問屋 D貸席

 2番の問題からの引継のような問題が出題されたが、関連の問題として

 1926(大正15/昭和元)年、県内初の洋食レストランとして開業しトリ天発祥の店とも言われる東洋軒も抑えておきたい。併せて直系のグリル三つ葉と第二東洋軒もお忘れなく。


4.海地獄が地獄を最初に有料で公開したのはいつか。

@明治初期 A明治中期 B明治末期 C大正初期 D大正中期

 1910(明治43)年に宇都宮則綱氏が初代千寿吉彦氏から海地獄を借りて遊覧施設を整備し2銭の入場料を取ったのが別府の地獄観光の始まりだと伝えられる。当時は交通の便が悪く訪れる者も少なかったというが、1924(大正13)年の陸軍大演習に併せて別府市議山田耕平氏らが国に働きかけて道路整備を行い、それが地獄めぐりの循環道路と成ったと言う。


5.かつて金山があったとされる場所はどこか。

@扇山 A明礬 Bラクテンチ C鉄輪 D浜脇

  1913(明治36)年、日本の産金王である木村久太郎が乙原の山に金が出ると狙いをつけ、「別府鉱山」と名付けて金山経営に乗リ出した。しかし温泉の噴気に悩まされ、大正5年には操業を中止。木村はこの金山をあきらめきれず、大正12年に採鉱技師山崎権市を派遣して再開を計ったが、温泉脈に影響を及ぼすという理由でついに閉山となった。

 山崎は、そこで眺望絶佳の地の利を生かして、再生の道を登山電車に求めケーブルカーが完成したのは昭和4年のことである。ここが九州のレジャーランドの草分けラクテンチだ。


6.大正時代に拡幅が行われ、かつては別府のメインストリートとして、商店やダンスホール、有名旅館などがたち並び、不夜城として賑わった通りはどこか。

@流川通り A西法寺通り B駅前通り C永石通り D中浜筋

 亀の井バスの観光ガイドの名調子で「ここは名高い流川、情の熱い湯の街のメインストリートの大通り。旅館、商店、軒並び、夜は不夜城でございます」が頭に浮かんで回答できた。

 流川通りの南側は秋葉通り。秋葉神社の北側を通る路地は「どい」と呼ばれ、江戸時代から続く旧秋葉通りである。この付近は交通の要地で、馬宿もあったとか。


7.1957(昭和32)年に開催された博覧会の名称は何か。

@別府博覧会 A別府温泉博覧会 B中外産業博覧会 C別府国際温泉観光大博覧会 D別府温泉観光産業大博覧会

 1957(昭和32)年に別府温泉観光産業大博覧会が開催され、別府タワーや鶴見岳の別府ロープウェイに九州横断道路(やまなみハイウェイ)が開業するなど観光施設の開発も相次ぎ、宿泊施設も急激に増大していった。

 この前提として、1950昭和25)年に、国際観光温泉文化都市に第1号として選定された事がある。


8.別府の地場産業でないものは何か。

@ツゲ細工 A別府絞り B竹細工 C七宝焼 Dザボン漬け

 別府市竹細工伝統産業館も有るように竹細工は別府の有名な地場産業。ツゲ細工は名前もズバリの松原にある別府つげ工芸が有名。別府絞りも豊後絞りの系統とか。ザボン漬けも含めてホテルや街で家内の買い物に付き合っている身には自然と頭に入っていた。

 上記の中では別府絞りが一番マイナーかもしれないが、これは湯染めのことで温泉に布を浸して、模様を染め出すことを言う。別府八湯の1つである鉄輪温泉の海地獄や血の池地獄の絵葉書を見ると、湯染めの写真が掲載されている。おそらく明治末期から昭和初期にかけて流行したと染め物と言えよう。ブランド名は別府絞りと言って、地獄の温泉で染めた生地である。


9.内成は、何の「日本の百選」に選定されているか。

@田園 A棚田 B美しい村 C水田 D田舎

 内成棚田が棚田百選に選ばれており、それ以外にも下記の百選に選ばれているようだ。

 21世紀に残したい日本の風景百選として「別府のゆけむり」

 近代水道百選として「乙原貯水池」

 にっぽんの温泉100選に「別府温泉」これは当たり前。

 夜景100選に「十文字原展望台」

 かおり風景100選に「別府八湯のゆけむり」

 ふるさとのおにぎり100選に亀川の「山菜おにぎり」

 人と自然が織りなす日本の風景百選に「別府・明礬温泉の湯の花小屋」

 日本百名湯に「鉄輪温泉」と「明礬温泉」


10.明治中期に別府で導入された温泉掘削技術を何と言うか。

@上総掘り A下総掘り B別府掘り C竹掘り D武蔵掘り

 上総掘りは掘り抜き井戸の代表的な工法で、やぐらを組んで大きい車を仕掛け、これに割り竹を長くつないだものを巻いておき、その竹の先端に取り付けた掘鉄管で掘り抜くもの。

 1879(明治12)年頃に上総掘りが別府に導入されて温泉掘削が盛んとなり発展した。明治21年には内湯を備える宿はわずか14軒であったが、明治40年代には一気に1,174軒にも急増したという。

予想される今後の出題

○別府冷麺

 地元でPRしている食に関して出題されると考えられるが現在営業中の店にも関連する事からあまりつっこんだ出題は無いと予想する。下記の事項程度を押さえておけば良いのではと考える。

 別府の冷麺は専門店と焼き肉店の二系列に大別できるという。めんは小麦粉、そば粉、でんぷんが基本で、太さや歯応えなどの違いは各店秘伝の配合による。

 専門店系の発祥は、かつて松原公園の近くで故・松本一五郎さんが開いていた「大陸」にさかのぼる。その教えを受けた「別府冷麺胡月」(石垣東)や「きりん亭」(餅ケ浜町)などは、キャベツキムチや太めのめんなどが別府の専門店の特徴である。

 焼き肉店系のルーツは「春香苑」(南立石)とされる。故・金光一さんが戦後、海門寺公園のそばで「アリラン食堂」を始め、平壌(ピョンヤン)冷麺を和風にアレンジ。その後、春香苑を開いた。

○陸上交通

 陸上交通の関係では、豊州電気鉄道(別大電車)が1900(明治33)年に開通した。続いて1911(明治44)年には、現在のJR日豊線の別府駅が開業し、北九州方面との利便性が一段と増加して、炭鉱関係者などが観光客あるいは別荘の所有者として数多く別府を訪れようになった。こうした背景には、1894(明治27)年〜1895年の日清戦争、1904(明治37)年〜1905年の日露戦争による経済の好況もあった。(URA旅日記より)

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