天正遣欧少年使節の千々石ミゲルの墓が見つかった

 02/29の長崎新聞一面に「千々石ミゲルの墓多良見で見つかる」と大きく出ていた。歴史好きの私としてはじっとしてはいられない。(03/02/2004)

 千々石ミゲル(日本名・千々石清左衛門)といえば、大村純忠公ら九州のキリシタン大名の名代として、16世紀後半(天正10年)に欧州に渡った少年4人の一人。8年後に帰国を果たしたが以後不明な点が多い。4少年の中で唯一千々石ミゲルは帰国後改宗し結婚をしたと言われるが、いままで墓所等は不明なままだった。

 場所は多良見町山川内郷だが、国道207号線で伊木力まで来たら長与町に向かう県道で左折。上り始めたあたりで、左手に幾つもトンネルが見えるJR長与線が見える(写真左)。写真中央やや右手に黒い点が見えるが、これがレンガ造りのトンネル。これを抜けてすぐの右手ミカン畑の中に祀られている。

 現地を訪れたとき、ちょうど隣接の井手さんの奥様にお話をうかがうことが出来た。奥様の右側奥(写真中央)に見えるのが千々石ミゲルの墓所。奥様の話に寄れば、昔は大きな楓の木があり、墓石の左手には従者の墓が3基(現在は流されて1基のみ)あり、静かな墓所であったという。またJRの線路が出来る前(明治中期以前)は、墓所から大村藩の玖島城が見えていた(写真右)ので、ミゲルはどんな気持ちで眺めていたのだろうかと。

 またキリシタン弾圧下に改宗し妻を娶り、どんな気持ちで生涯を終えたのだろうか、江戸時代以前のキリシタン全盛時代の一つの成果として遣欧派遣使節となり、後半生は弾圧の時代をひっそりと生きたで有ろうと思うと、なんとか今、日の目を見せてあげたいと語っていただいた。

【メモ】墓石の記載

 安山岩の自然石で建てられた、墓石の表面には「寛永九壬申(じんしん)年十二月」・「本住院常安霊(男性の戒名) 十四日」・「自性院妙信霊(女性の戒名) 十二日」・法華宗を意味する「妙法」、裏面の左下方には「千々石玄蕃允」(ミゲルの四男)と刻まれている

【メモ】調査を担当した大石氏(石造物研究会副代表・県立口加高校教諭)の根拠

 千々石氏の家系図を調べ、戒名や逝去年などで墓石の主をミゲル夫妻と玄蕃を含む4人の兄弟ら7人に絞り込んだ。更に、長男は寛永14(1673)年の島原の乱に参陣▽二男は早世▽三男も他家の養子となった後に消息不明――などから除外し、寛永9(1632)年に没したミゲル夫妻のため玄蕃が建てたものとほぼ断定した。

【メモ】その他の三人のその後

 伊東マンショは過労によりまだ若くして長崎で病死。原マルチノはマカオに追放され一人寂しく客死。中浦ジュリアンは長崎の西坂で壮絶な殉教。

【メモ】従来の千々石ミゲルの説明

 1569(永禄12)頃〜没年不詳千々石城主千々石直員の子。有馬晴信の従兄弟かつ大村純忠の甥で あったため、有馬・大村両家の名代に選ばれた。1580(天正8)年受洗、 ついで有馬セミナリヨに入学。温和な優しい性格であったとヨーロッパ の記録に評されている。しかし、1601(慶長6)年にはすでに棄教し、 清左衛門と称していた。遣欧使節として華やかな前歴を有しながら、 晩年は不遇であったらしい。

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