井樋尾「御境石」(井樋ノ尾)

 諫早から、長崎に向かって、国道34号線を行く。多良見町の交通機動隊の前を通って、イービーキムラヤの角を、左に入る。古賀の藤棚に向かう途中、峠に、領境石がある。
(01/22/2002)

領境石の左側に見える、白い文化財指定の案内看板を書き写す。

多良見町指定文化財第四号

井樋尾「御境石」

 文化5年(1808)のイギリス船フェートン号事件以降、長崎港警固の必要から、安政6年(1855)幕府の命により、大村領東泊(大浦村)を、天領に繰り入れ、代地として、古賀村を大村領とした。

 この御境石は、この時長崎往還道の佐賀領喜々津村と、大村領古賀村の領境に立てられたことが文献に記されている。

平成11年7月

多良見町教育委員会

 句読点などは、適宜追加した。しかし、この領境石は、多少場所が変わっているらしい。多良見ライオンズクラブの石碑によれば、「昭和57年7月23日の長崎大水害時に、此処より東南50m上方より、露出するこの地に移設建立する」と、水害の翌年の記載がある。

 この領境石から、諫早の久山の茶屋までの間が、長崎街道の雰囲気を比較的良く残してあるので、すこし辿ってみよう。もっとも、正確に長崎街道を、旧古賀村から辿ると、常盤坂を登るから、この領境石のところは通らないのだが。本街道と、付かず離れずの車道も、そんなに悪くない。

街道の右上、山の手に観音堂が建つ。

 伝えによると、観音像は島原の乱(1637)のころ南有馬観三寺の僧が乱から逃れるため、この像を守ってこの地に避難し、とどまったことが始まりといわれている。

 石碑のあるこの場所は東西からの坂の頂点にあたり、標高は約145mある。昔奉行や大名などの行列がここで旅の途中、籠をおいて、休息し、周囲の眺望を楽しんだと思われる。昔はこの周囲の木立は伐られ、広く見渡せることが出来た。
 籠立場【かごたてば】とは大名行列などが、大名の乗り物である籠をおいて休憩する場所である。
 「水神様」ともいう。絶えず清水が湧き出しており昔から絶えたことがないと言う。建立は文政元年(1818) という。写真左手で、水が汲めるように成っていて、車で汲みに来る人も多い。
 清水の祠から少しいくと街道は下りながら大きく左に曲がり三又路となる。下に下ると多良身の国道34号に通じる。街道は上に上り峠の茶屋跡になる。昔は茶屋は街道脇の高田家付近に2軒あった。 大村湾の眺めがいい。
 旧喜々津村と久山村、現在は多良見町と諫早市の境になる。「郡境 彼杵郡喜々津。高来郡久山」と記されている。

 この、郡境石の先から、長崎街道は急に下って、諫早の久山の茶屋に向かう。久山に向かわず直進すると、花ノ木の集落に入り、九州自然歩道に従えば、やがて、碁盤の辻から、中核工業団地の上を通るのだが、もし徒歩でなかったら、花ノ木神社も訪れて欲しい。

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