伊東県之助の墓とサヤンゴゼ

 県立農業経営大学の構内で佐用姫橋のたもとに伊東県之助の墓とサヤンゴゼがある。長崎街道に面している。(02/03/2002)

長崎大学の長崎街道資料より書き写し

道祖元・伊東鼎之助墓

 さよひめ橋を渡って右手に道祖神がまつられている。 付近の人は「さやんごぜん」と呼ぶ。疫病除け、道路・交通の神として道祖神が祀られている

伊東鼎之助の墓

 明治七年(1874)江藤新平の佐賀の乱の時、長崎で編成された諫早・大村の志願士族による県庁軍が長崎警察署員に引率され佐賀に向かう途中、一人の青年が尋問に引っかかった。

 佐賀人伊東鼎之介と名乗り、諫早の早田快太に会いたいという。早田快太は元諫早藩家老で後に初代北高来郡長になる人物である。伊東は諫早を味方に引き込むためにきたのであろうが、永昌で出会った早田は、簡単な面談の後、長崎へつれてこいとだけ言って県庁へ向かった。

 伊東は護送される途中、ここ「さやんごぜん」で逃れようとし、斬り合いとなり、ここで、遂に斬首されてしまった。首は県庁に届けられ、県庁も諫早は佐賀に味方するものではないことを認めたという。

 首は持ち帰られ、遺骨とともにここに葬られた。碑には「佐賀士族 行年廿三歳(23歳 )伊東鼎之助の墓 明治七年二月二二日」と記されている。

以上

伊東鼎之助の墓は、奥から二番目。上記の通り文字が読める。

【小船越追分】

 平山浄水場の前を、西に向かうと、街道はY字路になり、左は永昌宿への長崎街道、右は諫早の城下へと入り島原へ向かう島原街道となる。

追分 追分

05/09/2008更新

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