朝から「みさき道人」さんからのメールを見てびっくり。また新しい橋の情報だ。さっそくブログのページを見てみると、情報入手から掲載までのプロセスが記載されている。早速、現地に行ってみて洗濯工房さんにことわって裏手に廻る。半時間ほど草刈作業をして、改めて橋の姿を見せてもらう。
架橋は明治44年2月と上流側の要石に刻まれている、環厚37cmの立派な輪石だ。JR側の壁石・覆土は無く、輪石部分のみが残っている。近くの方に伺うと、昭和30年代初めには既に橋としては機能していなかったそうで、現在のJR側の擁壁は昭和57年の水害後に改修されたとの事。
明治30年(1897年)九州鉄道の長与〜長崎線開通時と線路の位置は大きくは変わっていないそうだが、その線路に対して75度程の角度で当たる位置に橋が架かっていることを疑問に思い尋ねてみると、通行禁止にはなっているが赤道が、現在の線路位置から見れば4m以上低い位置で渡っていて、県道も随分嵩上げされているので、現状の橋の高さが、明治の線路高さと一致していたのかもしれない。裏手の字城丸のご婦人によれば、線路の位置は元木(今は本木という)の方からの字が続いていたので、橋の位置は字城丸ではないという。
名前のことも含めて、九州鉄道開業時から明治末頃の地形の確認も面白そうだ。地の利、人の利がある、「みさき道人」さんに期待したい。下記は氏のブログのページの抜粋。(03/20/2008)
長与インター入口近くでアーチ石橋が見つかる 西彼杵郡長与町高田郷 西彼杵郡長与町高田郷にも、まだ知られていないアーチ石橋が残っていた。これも「《トピックスで読む》長崎の歴史」の著者江越先生の話から。 |
長与〜長崎の九州鉄道開業は明治30年7月22日に下り線から始まった。03/21/2008修正