石造アーチ橋を訪ねて

第 191 番 高田の橋
西彼杵郡長与町高田郷
高田の橋
明治44年2月(1911年)
長さ3.8m 幅員4.6m
川平道路長与インター入り口交差点近く、洗濯工房裏。

 朝から「みさき道人」さんからのメールを見てびっくり。また新しい橋の情報だ。さっそくブログのページを見てみると、情報入手から掲載までのプロセスが記載されている。早速、現地に行ってみて洗濯工房さんにことわって裏手に廻る。半時間ほど草刈作業をして、改めて橋の姿を見せてもらう。

橋が満足に見えないほど蔓が蒔いている 要石

 架橋は明治44年2月と上流側の要石に刻まれている、環厚37cmの立派な輪石だ。JR側の壁石・覆土は無く、輪石部分のみが残っている。近くの方に伺うと、昭和30年代初めには既に橋としては機能していなかったそうで、現在のJR側の擁壁は昭和57年の水害後に改修されたとの事。

乱積みの壁石 端正な輪石の加工

 明治30年(1897年)九州鉄道の長与〜長崎線開通時と線路の位置は大きくは変わっていないそうだが、その線路に対して75度程の角度で当たる位置に橋が架かっていることを疑問に思い尋ねてみると、通行禁止にはなっているが赤道が、現在の線路位置から見れば4m以上低い位置で渡っていて、県道も随分嵩上げされているので、現状の橋の高さが、明治の線路高さと一致していたのかもしれない。裏手の字城丸のご婦人によれば、線路の位置は元木(今は本木という)の方からの字が続いていたので、橋の位置は字城丸ではないという。

変形の少ない内側 痛みは少ない

 名前のことも含めて、九州鉄道開業時から明治末頃の地形の確認も面白そうだ。地の利、人の利がある、「みさき道人」さんに期待したい。下記は氏のブログのページの抜粋。(03/20/2008)

長与インター入口近くでアーチ石橋が見つかる  西彼杵郡長与町高田郷

 西彼杵郡長与町高田郷にも、まだ知られていないアーチ石橋が残っていた。これも「《トピックスで読む》長崎の歴史」の著者江越先生の話から。
 先日、勤め先の大瀬戸歴史民俗資料館を訪ねたとき、長崎市三ツ山町に残っていた「小谷橋」(先項)と一緒に、この長与町の橋のことも聞いていたのだが、私は今、中尾城公園に移築されている「百合野橋」のことと思って、よく聞いてなかった。

 百合野団地入口で現在、JR線路をまたぐ橋が「百合野橋」となっている。もともとアーチ石橋であった橋は、団地へ入って「百合野団地第一」バス停右下にある小さな橋である。
 話の様子が違うので昨夜、先生へ再び確かめた。先生も実際見られたのでなく、この橋は大宮町の道津さんから聞いた話。道津さんが近くをよく歩くので見つけられていたのである。
 幸い道津さんは、私のかつての職場の先輩。電話して場所を確かめ、本日(3月19日)調べに行った。

 場所は、道の尾を通って長与へ行くJR長崎本線沿いの県道33号線。川平有料道路長与インター入口のすぐ手前左側にクリーニング店「洗濯工房」がある。この店裏とJR線路との間に小さな川が東の山手から流れている。
 壊れかけた石橋が、店裏のコンクリート壁にへばりつくように残っている。線路側は水害により上石が流されているようだが、骨組みはしっかりしていて、アーチの形を完全に残している。

 脚立で橋まで降りる。上流側の中央切石に「明治四十四年二月築造」と刻んでいた。橋名がもしやとして下流側へ回ったが何もなかった。長さ5m、幅員4mくらいの橋。
 店の家人に聞くと、昔は橋の高さで脇に旧家があり、県道が通っていた。今の県道が高くかさ上げして造られたため、敷地を高く上げて現在の店を作っているそうである。
 うまい具合に列車が通った。壊れかけているが、いつまでも残ってもらいたい市近郊のアーチ石橋である。

長与〜長崎の九州鉄道開業は明治30年7月22日に下り線から始まった。03/21/2008修正

 

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