石橋王国九州の理由

 石造アーチ橋は、長崎・熊本・大分・鹿児島の各県を中心に九州に多く架橋されている。なぜ九州が「石橋王国」なのだろうか?

桃渓橋

1)長崎の中島川石橋群が果たした役割。

 寛永11(1634)年に長崎眼鏡橋が架橋され、僅か半世紀強の間に次々と架橋された。架橋に関しては、僧、華僑、通事、豪商などの民間の力によるものが多くを占めるのも、唯一の海外貿易港であった長崎の特殊性もあった。

 この石造アーチ橋を見て興味を持ち、士分を捨ててまで石橋に打ち込んだものもあったし、長崎の石工に施工を依頼した者もあった。そこまで行かずとも長崎という異国文化の先進地に最新技術の石造アーチ橋が架かった事で、この橋が丈夫で永く使える橋だということを多くの人に伝えたことは確かであろう。

 長崎からの直接的な技術伝播もあったであろうが、技術というものは出来上がった姿を見ることで、それと同じものを独自の技術で開発し得る事も、また事実である。

 中島川石橋群が形作られたことだけでも、石造アーチ橋の国内での発展に寄与したことは否定できない。

2)時代背景が石橋を本州には広めなかった。

 上記が正しかったとして、江戸幕府が全国に架けようと思えば、石造アーチ橋は幾らでも広まったと考えられるが、河川が防衛の拠点でもあり、外様雄藩疲弊の為にも実施していた参勤交代など、幕府には交通網の整備を怠る理由もあったようだ。

 山陽道・東海道等、街道に石橋が架かってしまえば、川越に日時も不要で領民も潤ったと思えるが、幕府には全国の産業振興などの政策は無かったようだ。また、そこまで穿った見方をしなくとも比較的水害の少ない本州では、木橋で十分であったのかもしれない。

 また九州は幕府から見て、関門海峡という大きな要害の地の向こう側、いくら石橋が出来ても問題は無かったとも思える。

 上記の傍証として、維新後は新政府の県令の指示により全国各地に石造アーチ橋が掛けられた事が挙げられる。(九州人が全国の要職に就いたことも有るだろうが)

 山里の石橋を訪ねると、とても優秀な石工が円周率や詳細な設計をしたとは思えない、ごく稚拙に割られた石や自然石で輪石が組まれた石橋にも出会うことが多い。円周率や詳細な設計に寄らなくとも、アーチ橋を経験をした石工や農民が、経験則で架けたと思える石橋ではいかと思える石橋も有った。

3)九州が「石橋大国」になったのは

 まず時代背景が石橋を九州に広め、そのため多くの架橋経験から優秀な石工が多く形成されたことがあげられる。

 また、九州山地は急峻な地形であり丈夫な石橋を必要とした厳しい自然環境があった。それと同時に加工に適した溶結疑灰石という原材料の宝庫で有ったことも大きな要因と言える。

 自らの財を賭してでも、地域の民衆を思う多くの人たちが居たことも忘れてはいけない。

 こんなことに思いを馳せながら、石橋を訪ねるのも楽しい。

 

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