平松神社(平松城跡)

 栄田の蛍橋の上流、平松橋を右折して、ちょっと入ると平松神社になります。

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 この付近は諫早での弥生時代からの耕作発祥の地です。本明川入り江の奥にある本明地区は三世紀〜古墳時代にかけての遺跡が発見されています。

 古くから開けていた地域の神社らしく、諫早市史によれば諫早地区では最古の創建と言われています。

祭神
伊邪那岐命、伊邪那美命
由来
創建は和銅元年(708)8月に小祠を祀って本明の里の産土神としたと有り人口の増加に伴い社地を広め社殿を増築したと言われている。

 また、この地は、古城と呼ばれていますが、裏山を歩くと、確かに帯曲輪などの跡が見られます。

 諫早の古名である伊佐早氏は諫早史に鎌倉時代末期から南北朝時代に突然歴史に現れます。諫早の中央部船越駅付近に正応年間(1288年頃)、船越又次郎入道如覚が船越城を築城し伊佐早氏となり南北朝時代を諫早地方の北部の雄として戦った記録があります。しかし、船越駅は古くからの官道の駅の名であり、元々の諫早之庄の主は藤井氏で有ったと言います。


(平松城址遠景)

 平松城址は文献に現れないので文化財にも指定されていないのですが、これだけの山城遺構が有力者の居城でないはずがありません。

 この地こそ船越氏を名乗った者の居城で、ここから南下して藤井氏を追い船越氏を名乗った、後の諫早地方北部の主、伊佐早氏ではないかと考えます。(勝手な妄想です)

 伊佐早氏は船越城以前の記録が本当にすくないのです。

 また、散歩のついでに平松神社に行ったら鳥居の脇に昔の額束が残っていて、「松大権」と残っていました。昔は、平松大権現と呼ばれていたようです。

 境内には、諫江八十八ヶ所霊場の第五番札所、阿波国地蔵寺が祭られています。こちらの弘法様は、低い台座に座している。文政8年の八十八霊場の資料に、「下本明村平松権現」とあるので、上記の額束は、やはり間違いないようだ。

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05/10/2008更新

08/14/2007更新

 

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