祖父君神社(新魚目町)

 上五島高校の正門から、津和崎に向かって、徒歩一分、高校の敷地に隣接している。
(02/06/2002)。

 大きな鳥居が目に付いた。郷社、祖父君神社。境内には歴史を感じる、二の鳥居も見える。向かって右側に流れているのは、宮の川。

 その宮の川の先には、旧魚目村立水産学校の跡がある。

 拝殿の、瓦の巴紋から、八幡様だと、推測。しかし、神社の前の掲示板には、2月の初午祭の記載があるので、稲荷神のいずれかは、お祀りされているはず。
 そのえう、神牛がいらっしゃる。これは、天神様も、お祀りされているはずだ。神社の中を歩いていると、こうして祭神にまつわる、色々なものが見えてくるのも楽しい。

 一の鳥居の前の、狛犬には、昭和6年12月社殿改築記念の文字が見える。

 神社の境内左側の日露戦争の碑ノとなりにある、頌徳碑を見てみよう。よく神社には、頌徳碑がる。その地域の発展などに功績のあった方を讃えての碑であるから、目を通しておくと、地域の歴史の一端に触れることが出来る。

 碑文の写し

 魚目は、古くから五島五ヶ所の猟場の一つに数えられ、鯨捕りや鮪大敷網など、比較的大規模な近世漁業の栄えたところである。

 明治初年諸種の封建制度が撤廃されるに当り、わが松園貫一翁は、加徳士所有の鮪網の漁業権を浦人に開放し、協同公平な方法で漁業を行うように提唱し、小野慶太郎氏のよき協力を得て、明治三年以後、県当局に出願し交渉を重ね、あるいは上京して時の内務卿、大久保利通卿に誓願するなど、10年にわたる努力の結果、明示2年に至り、ようやく鮪網漁業権の半ばを、浦人一同の所有とする事に成功したのち60年を経て、加徳権は全廃されたが、翁の明敏よく時代の赴くところを察し、村民の指導にあたったことは、現在高く評価されている。

 中口茂喜翁は、大正10年4月より昭和15年8月まで19年5ヶ月のながきにわたり漁業組合長の職にあり、この間漁業権の獲得と新漁業権の獲得に努力し漁具の改良に意を用いたが、対象15年11月以降村長の要職も占め、防波堤の建設を推進、近代的校舎の建築を完成し、更に上水道を設けて、村民の保健衛生の向上を計るなど、その活動は広範にわたり、顕著なものがあった。ここに碑を建て、以って両翁の遺徳を讃仰し、その功績を讃彰する。

昭和38年 吉日 魚目漁業協同組合

新魚目は、やはり、漁業の町だ。

 

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