久山町の歳神社と戌の公園

 国道34号線久山の沿線、大村湾側に小高い丘が見える、諫早に10ヶ所あった支城の一つ、久山城跡です。この麓にあるのが、歳神社です。

Mapion

 国道から少し入ると、この鳥居が見える。途中高くなっているところはJR長崎本線の踏切です。この神社の参道は踏み切りを超えていきます。

 歳神社といえば、五穀豊穣を司る神様ですから郷社には、よくある神様ですね。タヌキが住んでる町内の鎮守様も歳神社です。

 境内はよく手入れされていて、お参りをするのも気持ちが良く、氏子の皆さんから、大事にお祭りされている様子が見て取れます。

 二の鳥居と社務所を通って上ってくると、本殿の前に土俵が有ります。この歳神社から2kも長崎方向に行けば、喜々津の阿蘇神社が有ります。阿蘇神社では毎年盛大に奉納相撲が行われています。昔は何処の鎮守様でも、奉納相撲が行われていましたが、このごろは少ないですね。歳神社の土俵も、土俵跡と言ったほうが良いかもしれません。

 境内の土俵跡の反対側の右手に、「十二支公園(戌)久山城山公園」の標柱があります。十二支公園はたいてい、標柱からすぐ広場が有るのですが、この公園は、この山自体が公園です。広場は、山頂にあります。

 山頂の広場には、諫江八十八霊場の一つ屋島寺が祭られて、隣には五穀守護神があります。時代が感じられて、いい雰囲気です。

 周りの木々で大村湾はちょっと見えずらいのですが、木々の間から見える風景も良いものです。桜が周りに結構ありますから春の花見のシーズンにはきていでしょうね。

 ただ、下の神社から結構急なのぼり道ですから、アルコールが入ると、帰りが危ないかもしれません。花を楽しむだけが良いかもしれません。

<メモ>

祭神:年神三神(大歳・御歳・若歳神)を祀る。

縁起

 久山開創のとき、田畑の虫害防除を願って、「宮の元」に祠を建てたのが始りで、文禄元(1558)年塩田を開いた時に、台風のつど岸が壊れ、復旧してもちょっとした風でまた壊れるため、人力では、対応困難と、沿海に御霊を遷し、船上で祈願したところ、岸の破壊を免れたとされる。
 そこで、正保3(1646)年、海辺にあたる「山の上」に遷宮、明治に至ったが、明治7(1874)年の夏暴風雨による山崩れで、神殿破壊のため、よく8年、現在地に社殿を建て、鎮座した。久山の鎮守さまである。

 久山城址の8,9合目辺りには、空堀や削平地などが散見され、中世の山城であることがワカル。真津山史話によれば、西郷時代の喜々津薩摩守の居城跡とされ、西郷尚善が宇木(有喜の古名)から、高城に入った頃か、天正15(1587)年の、竜造寺家晴の西郷攻めのときに、滅亡したのだろうという。一族は大村家を頼って、川棚に移住。同地に末孫が現存するとか?

疑問??

 現在のJR喜々津駅の名に残る、この喜々津と言う名前は、竜造寺家晴が伊佐早城を攻め取った後、秀吉の元禄慶長の役の役目を終えて、当時の木木津に無事帰還したことを喜んで、喜々津と改名したと伝えられている。

 真津山史話が正しければ、喜々津の名前の由来が竜造寺家晴の以前に遡ることになる?

04/26/2008更新

 

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