稚桜神社(坂本町)

 長崎大学医学部の正門の横に鎮座するというよりも、原子爆弾の爆心地に一番近かった神社です。(04/07/0008)

 神社の場所は現在でこそ丘の上といった感じだが、江戸時代には海に突き出した岬の高台で、被爆前は閑静な住宅街であったという。

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 慰霊碑が神社の入り口にある。ここは爆心地から500m圏内で、浦上・山里地区には8000人以上の住民が住んでいた。

 その人々の大部分が原爆により即死したという。

 浦上地区では、一家全員が生き残ったのは、山王神社の神職の御一家だけだったと伝えられている。

11時2分のモニュメント  神社の前に、11時2分のモニュメントがある。

 毎日原爆が投下された11時2分に「ふるさとの町焼かれ・・・」の原爆許すまじのメロディがながれる。

 稚桜(わかさくら)神社といえば、祭神は出雲色男命だろうとかの薀蓄や、いったいどこから勧進したのだろうか等の考えは浮かばない。

 過去はどうあれ、この神社の今の祭神は、原爆の業火に焼かれた人々の魂だろう。

 神社から道なりに下って、浜口町の角の交差点に出る。

 この正面が詩人、福田須磨子宅跡。須磨子は23歳で被爆。母と姉を無くし、自らも後遺症で苦しみながらも「生きているだけでも原爆に対する抵抗だ」と闘病生活を送った。

 代表作「われなお生きており」52歳で永眠。

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 どうも浦上界隈を歩いていると、普段の神社巡りの気持ちになれない。それでこの稚桜神社のアップが今になってしまった。

 

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