平家の里破籠井の熊野神社 |
破籠井にやってきました。平家の落人伝説の残る里は、小春日和の中に静かに在りました。
(11/24/2001)
右側の山の、更に右側の東側の斜面に、旧長崎街道の古道が残っています。 また、左側の丘陵の麓に、熊野神社が有るのですが、この破籠井の里の入り口からも、旧長崎街道からも、熊野神社を見ることは出来ません。 ここは、壇ノ浦の敗戦の後、平家の落人が、平家再興を祈念しながら、一族の力の回復を図っていたと言われる、そんな伝説が残る里です。 |
|
いまの社殿の、北西一キロほどの山中。西郷氏の津水の出城の裏山に、もともと熊野大権現を祀ったようで、その跡と思われる遺跡があります。西諫早開発に反対した人たちの、「森へ行こう」の時に、何度か遺跡を見て歩きました。 現在の社殿も、街道からも見えない位置に、祀られているのは、やはり、人目を忍ぶ、落人部落の社だからでしょうか? この鳥居の前に、猿田彦命が正対する形で祀られています。(女夫木の里と同じですね) |
|
境内は、人の手がよく入っています。氏子の方達の、心栄えが見えるようですね。 祭事を、行う時は、御舘山稲荷神社から、宮司が見えて、行うのですが、普段の手入れは、地元の破籠井の方達が、されています。 毎年2月1日午後2時(毎年同じ)に、一年の吉凶を占う、「百手祭り」が、執り行なわれます。ちなみに、「今年(2001)は幸せと危険が紙一重」と、占われました。 |
|
二の鳥居の下で、奥さんが小石を投げ上げています。私がいつまでも降りてこないので、退屈してしまったようです。 子供の頃に、よくやりましたよね。鳥居の上に小石が乗ると、なんだか一日、良いことがありそうな気がしたものです。 もちろん、夫婦で二個の小石を載せて来ました。(子供と同じです) |
今日、平家の里、破籠井に行く気になったのは、Sunset202さんに出会ったことがきっかけです。
<名前の謂れ>
破籠井もしくは、破篭井の名前を「わりごい」と、始めから読める人は少ないでしょう。この名前には、諸説があって、その代表的なものを、挙げてみましょう。
1)旅人が、この地で弁当(昔、割籠と呼んだ)を開いて、昼食を摂ったから。
2)田圃(籠=こもり)が狭く、その上、その狭い田圃を割って、川が流れていたから。
3)そのむかし、平家の落人の一団が、お姫様を乗せて、この地を通った時に、長旅の末、籠が割れてしまったため、この地に隠れ住んだから。
私としては、この三番目が、気にいってます。この時に住んだところが、神社の脇から、今村川の方に、500m程下った、讃洲谷(字一の角)だと、いわれています。
ここには、小道の山側に、住居跡のような石組みが残っています。
<落人は誰?>
文治元(1185)年長門の壇ノ浦での合戦に破れた、平家の一門は、九州各地に落ちていったが、一門の讃岐中将伊賀倉左近平時実の主従11名(一族8名とも言う)が、3年の流浪の末、文治4年に破籠井の里に、隠れ住んだと伝えられる。
<落人墓>
文中の猿田彦命の脇を抜けて、奥に入っていくと、雑木林の中に自然石を積み上げた墓が、大小50基ほど、ひっそりと眠っている。、文字を刻んだ跡は無く、他の墓とは、ちがった趣があり、気品さえ感じる。地元では「落人墓」とよぶ。
(12/15/2001)
<創建>
建仁2(1202)年といわれる。(奥にある旧熊野神社跡に創建の時です。)その頃は、鎌倉に頼朝が幕府を開いて間もない頃ですね。
<祭神>
伊邪那岐命
伊邪那美命
大日霊貴命(月霊貴)
<境内社>
稲荷大明神 | 若宮大明神 |
01/04/2003更新
12/15/2001更新