和多津美神社(対馬市豊玉町)

 厳原からは国道を北上、二位から案内にしたがって左折すれば良い。対馬を代表する神社の一つ。(10/28/2001)

 海の神社らしく、一と二の鳥居は海の中にある。ちょうど満ち始めたばかりの時なので、しっかりした礎石も見て取れる。

 白木の三の鳥居から社殿を望む。対馬一の宮としての社格を感じる、しっとりとした佇まい。
 社殿前の磯良恵比寿。霊石の原初のご神体と伝えられる。
創建 神代(海神である豊玉彦尊が当地に宮殿を造り宮を「海宮」と名づけ、この地を「夫姫」と名付けた)

祭神 豐玉姫命 彦火火出見命、宗像神、道主貴神、草葺不合命

<メモ>

対馬一宮、元国幣中社、海神神社略記

 主神豊玉姫命は神武天皇の祖母神で、鵜茅葺不合命の母神、彦火火出見命の后神に坐して、父君は海神豊玉彦命であり、魚族、海草の藩植海潮の満干船舶の往来等大海に関する一切を主宰し給う神であると共に安産の神でもあらせ給う。

 御本殿に御鎮座の5柱の神々は、皆神代に於ける皇室の御祖先の神々であらせられます。当地御鎮祭の年代は、古代の事とて詳ではないが、旧記に依れば初め上県郡佐護に出現し給い。更に勅命を以て伊奈郷伊奈崎の宮に移し奉れ、どこの宮も清水無きため現在の木坂伊豆山に遷座し給うと伝う。
神功皇后の三韓征伐の時は、己に此の伊豆山に鎮座し給へりと伝う。当社は延喜式に「対馬の国の一宮」に坐します。

 尚、当社は西北に満韓を控え、内外咽喉の地に在り、皇国鎮護の海神として歴代天皇の崇敬厚く、国家の大事ある毎に勅使参考祭祀奉幣あり。尚又藩政時代に於いても、藩主の崇敬篤く、島内各村に神事所役を命ぜられた程なり。神功皇后三韓征伐の際は海上にて数々大神を奉祭され、其の御加護により、刃に血ぬらずして三韓を降し得たりと御凱旋の折は特に当地御前の浜で懇に報賽の祭事を行はせられ、8旒の御旗を遣し給い、朕の魂も御旗と共に永く留め置き、海神とともに永く皇国鎮護に当らんと告げ給へりとぞ。爾来当社を和多津美神と奉称すると共に木坂八幡宮とも奉称するに至れり。

 この8旒の旗風は、彼の三韓を吹き靡かせしものなれば、此御旗の当社に納まれる事を伝へ聞きたる三韓国王等は数々当社に幣物珍寳を奉献して威霊を敬拝せり。斯る神代よりの尊厳無比の古社なれば、其の御造営の如きも昔時は勅命により太宰府所収上県郡6カ年間の貢租を以てこれに充て、藩政に至っては藩費を以て30年乃至40年目毎には必ず造営せらるるを例とされたり。

 大政奉還後、明治3年「和多都美神社」と定号され、又明治4年5月国幣中社に列せられ、神社の経費はすべて国費をもって支弁されることになり、同年6月太政官より「海神神社」と定称せらる。昭和20年大東亜戦終戦と共に、国幣は中止され今日に及べり。

御本社の境致

 神社は対馬の首都厳原を距る約40キロ、上県郡峰村木坂、伊豆山の中腹約280段の石段を上りたる所に在り。対馬の中部西海岸に面す樫、椎、槻の大木鬱蒼として、千古の林層をなし、山上常に雲気を帯ぶと、社頭を僅に下れば眼界俄に開け、対馬西海の風光一眸の下に集まる。飛崎の鼻は眼下西北方に突き出し、怒涛澎湃として飛沫の花を散らし、渺茫たる朝鮮海峡を隔てて煙波模糊の間に古三韓の山々を望むことを得而して夕照と相映発するに至っては蓋し地上の絶勝と云うべし。

06/12/2008更新

 

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