国道202号線の神浦の町に入って山側の旧道に入れば、一の鳥居が見える。(02/22/2002)
(白木の鳥居と、参道を掃く老女)
神功皇后ゆかりの神浦神社は、旧道沿いの一の鳥居から、参道を通る。
神浦神社の由来 神功皇后が三韓(今の朝鮮半島)を征服され、その帰途にこの神浦にお立ち寄りななったと伝えられていります。 この時、腰掛けられた石が村の人家中にあり、この付近は清浄に保つよう村人に伝承されておりましたが、人家が建て込んできたため、寛政8(1796)年、石垣を築いて境内とし、翌寛政9年より旧暦8月15日を祭礼に定めて、以来毎年村をあげて祭礼を営んできました。 従って祭神は、神功皇后であり、神功皇后のお名前から、息長帯比売命とされております。天保12(1841)年、石祠を作り、安政4(1857)年、石の鳥居を建立、続いて元治元(1864)年はじめて社殿を建造することが出来ました。 明治維新より神浦神社と称し西彼杵郡中に三社あった郷社の一つに格付けされ、大正5年8月には一の鳥居を建立して現在にいたっております。 神功皇后の赫々たる武運にあやかるために出征兵士の出陣の折は近傍から多くの祈願者が訪れたものです。 また笛と太鼓を伴っての神輿の道行きは祭礼の中心であり、郷社にふさわしい格式を偲ばせるものがあります。
神浦神社の由来
神功皇后が三韓(今の朝鮮半島)を征服され、その帰途にこの神浦にお立ち寄りななったと伝えられていります。
この時、腰掛けられた石が村の人家中にあり、この付近は清浄に保つよう村人に伝承されておりましたが、人家が建て込んできたため、寛政8(1796)年、石垣を築いて境内とし、翌寛政9年より旧暦8月15日を祭礼に定めて、以来毎年村をあげて祭礼を営んできました。
従って祭神は、神功皇后であり、神功皇后のお名前から、息長帯比売命とされております。天保12(1841)年、石祠を作り、安政4(1857)年、石の鳥居を建立、続いて元治元(1864)年はじめて社殿を建造することが出来ました。
明治維新より神浦神社と称し西彼杵郡中に三社あった郷社の一つに格付けされ、大正5年8月には一の鳥居を建立して現在にいたっております。
神功皇后の赫々たる武運にあやかるために出征兵士の出陣の折は近傍から多くの祈願者が訪れたものです。
また笛と太鼓を伴っての神輿の道行きは祭礼の中心であり、郷社にふさわしい格式を偲ばせるものがあります。
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石畳の舗装と相まって、雰囲気のいい旧道。