昊天宮(大村市竹松)

 国道34号線で大村の中心部を過ぎ竹松に入って右手にクスの古木が見える。また、国道に面して昊天宮の看板が見える。(02/27/2002)


(どっしりと風格のある一の鳥居)

昊天神社由緒略記

 今から二千年程前(弥生時代)、郡川流域の平野に文化を築いた時代があり、その当時の豪族が一門の氏神として、祖神をお祀りしたのが、この昊天宮です。

 その頃は肥前国彼杵郡(現在の東彼杵、西彼杵、大村市)と呼ばれ、この地域の総鎮守で現在の沖田町付近にあったといいます。

 ご神体は、和銅5年(712年 奈良時代初期)、行基菩薩が郡岳(標高826m)の聖域で謹製奉納したと記されています。

 永観二年(984年平安時代初期)大村家初代領主直純公着任以来、郡からも老若男女の参詣者群れをなし、お祭りも流鏑馬等の神事もあり、大変賑やかであったといいます。

 文明6年12月(1474年室町時代中期)、大村純伊公は、萱瀬の中岳で有馬氏との戦いに敗れ、日夜、昊天宮に御祈願になり、千日間参拝の誓いを立てたところ、「伊勢参宮せよ」との霊夢を得て参拝の途次、有力な援助者渋江公勢が現われ大勝利となり、文明12年8月(1480年)御帰領できたのであります。そこで、朝夕戦勝を祈願している昊天宮に詣で喜びの報告を行い、境内に陣地を敷いて夜の襲来に備えたところ、それを聞いた宮小路・黒丸・沖田等の領民たちが大喜びで駆け寄り、領主のたくましく成長された姿を見て嬉し涙の中に作った食事が、今の大村の「おし寿司」で、昊天宮が発祥の地であります。

 ここに昊天大神の御神徳を尊び感ぜられ、祭祀の礼厚く社殿の造営・神田の寄進数町歩等、彼杵郡総鎮守としての神社の面目を一新されました。

 その後、大村純忠公のキリシタン政策により、天正二年(1574年安土桃山時代)大村領内の寺社と共に、当宮も焼き討ちにあいました。

 この時ご神体は、事前に阿金法印により嬉野に遷されましたが、慶長七年(1602年)大村喜前公による再興時に、もともと昊天宮の御旅所であった現在の境内地にお戻りになりました。再興後の当宮は、大村藩総鎮守として、また大村藩の直祭社として、開運・旗上げ・安産・厄除け・旅行の守護神として崇敬特に篤く、祭礼には大村藩内48ヶ村の村により、氏子・崇敬者、群れをなせりと記してあります。

 明治になりまして、廃藩置県後は郡村にて奉斎しておりましたが、明治22年4月、町村が規制されましてからは、竹松村のみにて奉仕して参りましたので、地名を以って竹松神社と称していましたのを、昭和36年9月、大昔の通り昊天宮と改名し現在に至っております。

 由緒書きを読んでから、手水を使って、拝殿に進んでみる。

【祭神】 
木花咲弥姫命、瓊々杵命、天照大御神、伊邪那岐命、伊邪那美命、鵜草葺不○命、玉依姫命、素戔嗚命

【副祭】
大村近江権守藤原直澄公

 拝殿左手に祀られる祖霊社の鳥居、拝殿はくぐって左手。

先の大戦の兵士の手紙が心に痛い。

 産砂塚、津田木権現、恵比寿様、いぼ神様、延命地蔵尊・・・・多くの石祠に額束、標柱等が拝殿右手に祀られている。

 説明書きなどが備わっていて嬉しい。

 

06/15/2008更新

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