梅園身代り天満宮 |
長崎の花町、丸山、中の茶屋に隣接する、梅園天満宮。吉永小百合扮する愛八姉さんの「ぶらぶら節」で、すっかり有名になってしまいました。この日、梅が満開です。(02/08/2002)
下の写真は11/09/2002天満宮の例大祭の前日に訪ねた際の写真。丸山からの狭い石段を登って境内に入ると真っ白く塗られた鳥居に出会う。丸山の芸子衆がご贔屓なので、白粉塗りの鳥居だと地元の酔客の言。案外そんなものかもしれない。
丸山自治会の案内看板から書き写し
身代り天神で有名な「梅園身代り天満宮」
お社のいわれ ここの天満宮は、元禄13年(1700)丸山町乙名安田次右衛門によって創建され、以降丸山町の氏神様として親しまれています。 元禄六年(1693)安田次右衛門が二重門(現丸山交番付近)にて、梅野五郎左衛門に襲われました。そして、自邸に担ぎ込まれたが不思議なことにどこにも傷が無く、身代りに庭の天神様が血を流して倒れていたそうです。その後、この天神様を身代り天神様と呼ぶようになりました。 そのほか明和安永年間(1770年年頃)より、この場所は長崎奉行の許しにより芝居や見世物、相撲の興行が行われるようになり、また、花町に接していることから、遊女や芸者さんが多く参拝していました。さらに明治31年(1898)社殿大改修の際には文人墨客により天井絵を奉納されています。 また、第二次大戦時、丸山町の出征を命ぜられた者は必ず参拝したそうですが、身代り天神によりすべて無事に帰還したそうです。 祭事
平成十二年六月吉日 丸山町自治会 |
境内をチョッと見てみよう。
【梅塚】 梅の玉垣 梅園身代り天満宮には、明治40年頃まで、丸山の遊女や芸者衆が多く参詣していました。「身代り」を「みだい」とよび、自分たちの生活に苦労が無いことをお願いして参詣していました。彼女等は、自分の家で食べた梅干の種を、天神様と呼び、わざわざ持って来ていました。 |
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【歯痛狛犬】 江戸時代の天保11(1840)年に奉納された、梅園の狛犬さまは、昔から、願をかけると必ず叶えて下さるということで、多くの人々に親しまれています。また、歯の痛みが有る者が、狛犬さまの口に、水飴を含ませると、たちまち痛みを取って下さるそうです。 当時、この謂れは、日本各地にまで伝わり、多くの参詣者で市が立つほどでした。 |
現在の狛犬さまは、昭和12(1937)年に奉納された、三代目です。三代目にまでなりますと、時代の移り変わりか、水飴ではなく、キャンディが、口の中に含まれています。
境内社
金毘羅社 祭神:大物主神 嘉永7(1854)年建立
【長崎ぶらぶら節】
・長崎名物 はた揚げ盆祭り 秋はお諏訪のシャギリで 氏子がぶうらぶら
ぶらりぶらりと 言うたもんだいちゅう
・遊びに行くなら花月か中の茶屋 梅園裏門たたいて
丸山ぶうらぶら
ぶらりぶらりと言うたもんだいちゅう
・沖の台場は 伊王と四郎が島 入り来る異船は スッポンポン
大砲(おおづづ)小砲(こづづ)を鳴らしたもんだいちゅう
昨年11月(2007年)の大祭を前に、御神橋が再建された。その際、無くなっていた欄干の親柱が二本見つかった。この御神橋が扁平な石造アーチ橋(石拱橋)ではないかとの情報も有って、今日、確認に来た。
結果としては、石桁橋であった。橋の上に見える平行の石は厚さ5センチ程度の石板で、両側のカーブした桁に6センチ程の、ぬすみが切り込んであり、それに乗せられたものであった。
スパン1.9m、幅員もまた1.9mの石桁橋。部材は樹脂系のコーキングが施され、しっかりと復元されている。消失してしまう石橋の中にあって、こうして復元される石橋が有るのは嬉しい。
04/28/2008更新
11/09/2002更新