坂上天満宮(賑町)

 長崎市内県庁通りの、住友生命ビルから、裏手に入って、石畳の坂道を下って右手。
(02/14/2002)

 飲食店のビルに囲まれた、街中の神社です。まったくスペースが無い中でも、緑があるのがうれしい。この神社に向かって右手が「長崎喧嘩騒動」のきっかけになった、天満坂。

案内看板から書き写

史跡 天満坂 長崎喧嘩騒動発端の地

時  元禄13年(1700)12月19日

原因 

深堀藩士、深堀三右衛門、柴原武右衛門は所要をおえて、五島町の深堀屋敷帰途についた。おりしも町年寄、高木彦右衛門の初孫の宮参りを諏訪神社で済まして、天満坂を下って、この坂で両武士とであった。

この日は大雪で路地悪く三右衛門が石段で躓き倒れ、はね土が高木の仲間。惣内にかかった。

経過

両名は無調法を謝し、その場は収まったが、夕方、高木方二十数名の一隊が深堀屋敷に押しかけ、土足で乱暴を働き、その上両名の刀の大小を奪い去った。

討入

三右衛門と武右衛門は、武士としてひどい恥辱を受けた以上、切死の外無く、差替の大小を取寄せに在所に仲間を走らせた。

深堀においては、この難を見捨てるのは、男の道ならずと死仕度して出立す。

翌20日早朝、西浜町高木屋敷へ討ち入り、彦右衛門以下6名を討ち果たした。

深堀三右衛門は同屋敷で、柴原武右衛門は大橋(今の鉄橋)上で夫々割腹す。

幕府裁断

元禄14年3月21日

鍋島官左衛門家来 死罪10人 五島遠島9人
長崎役人高木彦右衛門下人 死罪8人 同人倅彦八郎、長崎四里四方追放

武士道は、死ぬ事と見付けたりの、葉隠れの教条を何のためらいも無く決行したが、世に言う、深堀義士伝のあらましである。

神社にもどってみよう。

 拝殿前。深堀義士の冥福も祈って、参拝してきました。狭い境内ですが、落ち着いた雰囲気があります。

祭神は、勿論、菅原道真公

 ここが、天満坂です。

 

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