岩屋神社(長崎市岩屋町)

 虹ヶ丘小学校の裏手の岩谷山登山口に鳥居があり地元の小学生なら一度は遠足で登る岩屋山中腹に鎮座する。(03/17/2008)

拝殿Mapion

【祭神】健速須佐之男命

【創建】和銅年間(708〜)草創と言われる。弘治元年、失火により消失。小社を祀っていたが万治3年、大村藩主により再興。この時、真言宗神通寺、神仏混祭岩屋大権現と称した。明治元年、官命により寺号を廃し岩屋神社と改称。明治2年9月23日に村社加列された。

登山口の鳥居 六部堂

 なにはともあれ今は老若男女のハイキングの場である。上り口にある六部堂は正式には岩屋山六部太子堂と言い日本廻国の六十六部が此処に来て脚気に病んだ。

 この六部は私と同じで大酒を禁じることが出来ず身罷った。その没する時に「吾生きて空しく年月を経たるのみ死後に於いて脚部の病苦に患む者は吾を祈らば必ず誓って病苦を救はん」と息をひきとったと言う。

 霊験あらたかなのか参拝に訪れる人は多い。(祭日は八月三十一日)

山門 憤怒の像

 六部堂への参拝を済ませて上れば鳥居と山門が並んでいる。また脇の大樹の下には憤怒の姿の石像がある。いかにも神仏混淆の歴史を思わせる。この先、社務所の脇に下の案内看板がある。 

 岩屋神社の拝殿に参拝してから、もう少し上がって岩谷山大権現の社にやってきた。三十三観音と相まって、こちらのほうが昔ながらの神仏混淆の雰囲気が有って良い。

拝殿前 三十三観音

 岩谷山稲荷神社に向かう処に石桁橋が架かっていて、その奥、階段の上に鎮座する。

 参拝を済ませて下山の途中、岩屋神社の社の脇に祀られた石仏が気になって、のぞいて見たら台座にはハングルが刻まれていた。それにしてもイルボン臭いハングルだなぁ。

 長崎市と合併する前の西彼杵郡西浦上村の五村社の内の一柱。当時の岩屋郷に祀られていた。

 当時の住所表記は西彼杵郡西浦上村岩屋郷八百番地イ号。例祭は陰暦の9月23日に執り行われており氏子九十三戸で神官は隣村の大草村の高以良清作氏で有った。

【西浦上村について】

 正平18年、応安5年の一揆の連判状に浦上村地頭等の名前が出てくるが領主の名前は出てこない。また、いつ頃から公地になったのかも文献に残っていないという。ただ慶長10年(1605)に公地(天領と言っても良いか?)から替地の為、大村藩領と成った。

 明治維新後は十五大区二の小区浦上村西となり、山里村・時津村・長与村と同様に山里村に役所を置いて管轄。

 明治12年に管轄移動し村の東西両部に役所を置き、17年に合併して西浦上村となった。当時の郷は、木場・三組河内・川平・家野・東北・西北・西・岩屋・滑石の各郷で有った。

 昭和13年に長崎市に編入。

 〜大正7年9月に編纂された西浦上村郷土誌を昭和63年に
川原竹一氏が補訂・解題した郷土史を参照した。

inserted by FC2 system