新上五島町に石橋を尋ねて |
長崎港から鯛の浦に入って午前中は有川で仕事。午後にも一仕事あるが時間を見つけて石橋を見に行こう。(07/04/2008)
午前中の打ち合わせで地元の「かとっぽ」さんから中通島唯一かと思われる石橋の情報を頂いた。その奈良尾を尋ねる前に、有川港の前の「うどんの里」で腹ごしらえ。
食後の散歩に近くの中筋公園に廻ってみる、有川神社に合祀された祖母君神社の跡地に造られた公園。拝殿があった上段にはアコウの巨樹が迎えてくれた。
祖母君神社の隣地は有川小学校跡、今は小さな石碑が残るのみ。隣は正利翁社。江口甚右衛門正利翁を祀る。翁は17歳で有川の名主になったが、この年、万治四(1661)年福江藩から富江藩が分立し有川の海は富江藩に譲渡され有川の民は海を奪われた。翁は福江・富江の重役に窮状を訴えるが富江藩は大村の鯨組に漁業権を与えるなど相手にしなかった。
翁と村民は江戸表に公訴を決意。三度に亘る公訴の結果、元禄二(1689)年・三年の裁許で有川の海は村民の手に戻された。
翁は裁許の翌年には鯨組を組織し地域経済・文化の発展に寄与して享保十(1725)年81歳で生涯を終えるまで地域に貢献し続けた。どこかの知事さんとは大きな違いだ。
そのまま歩くと郵便局や旧有川町役場に出会う。この庁舎の敷地は上記の江口甚右衛門正利翁の子、二代目甚右衛門種重が元禄十二(1699)年に造成して移り住み、以来、昭和16年まで存続し大江口屋敷と呼ばれたそうだ。
昼休みの散歩を終えて午後の仕事も済ませて、帰りの船までの時間に奈良尾の石橋を見に行こう。「かとっぽ」さんの情報ではアコウ樹で有名な奈良尾神社の隣の図書館の裏手との事。港町の町並みを楽しんで神社の前に出ると左手に図書館の青い案内看板が見える。
なるほど左手に狭い道がある。此処だろう。
左手に広い墓所がある。一間程の長さの石材を並べてある。通りがかりの人に伺うと上流側の桁三本程が昔からの橋で、その後近くの人が同じように石材を並べて川の上7m程の間を使えるようにしたという。現在は下流側が先の集落への近道になっていて上流側は上手の墓所への通路に架かる橋として使われている。
今まで新上五島町中通島内で、小さな踏み石程度の石橋は知っていたが、橋らしい石橋には始めてであった。さすがは地元出身のタクシードライバー「かとっぽ」さんである。感謝。
南松浦郡新上五島町有川郷428-31
うどん茶屋 遊麺三昧
0959-42-2655