金山(結城)城址(国見町多比良地区)

 神代交差点から雲仙方向に入って左手に見える小高い丘が「鶴亀城址」といわれる。(12/23/2002)

金山城址

 築城の時期は戦国期の初め島原半島における北辺の守りとして、この地に金山城を築城したと伝えられている。永禄の頃、有馬氏から土豪古賀越後は金山城・東空閑城(有明上町)の二城を与えられたが、天正2(1579)年には龍造寺氏の侵攻にあい、一族ことごとく戦死したという記録が古賀氏末裔系譜に記されている。

 

 慶長7(1602)年に切支丹武士結城弥平次が肥後の愛藤寺城(矢部町)から有馬晴信の招聘で知行三千石を与えられて入城しキリスト教の布教活動が続けられた。

 その後、慶長14(1609)年には、突如晴信の命を受け、マカオ船マードレ・デ・デウス号攻撃に参戦し勝利を得たが、晴信は慶長17(1612)年、岡本大八事件で処刑された。

 晴信の子直純の時代になってから切支丹信徒一掃が激しくなり、結城弥平次も慶長18(1613)年2月には金山教会の鐘を聞きながら数名の家来と供に城を後にして消息を絶った。その後、廃城となっている。

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