龍造寺軍上陸の地・長浜海水浴場(国見町神代地区)

 国道57号線を瑞穂町から国見町に入る辺りが長浜と呼ばれる。この地は肥前の雄、龍造寺隆信が上陸した地と伝えられる。(12/23/2002)

長浜海水浴場

 龍造寺氏は古くから佐賀城を居城とし周辺を領地していた。一方、有馬氏は島原半島の各氏を配下に置き、文明4(1472)年、佐賀に攻め入り藤津・彼杵・神崎・三根の各郡二十一万石相当を占領したが、後日、佐賀の占領地は龍造寺に奪い返された。

 永禄5(1562)年、有馬義直は大軍をもって佐賀に攻め込んだが敗退した。天正5(1577)年、今度は龍造寺軍が島原半島の神代・多比良・三会・千々石の各城を占領、翌年島原浜の城や安徳・深江を攻めて味方とした。

 天正12(1584)年3月、龍造寺隆信は、約五万八千の大軍を率い、有馬・島津の連合軍を征服しようと島原半島征服を企てた。

 龍造寺軍は3月18日、須古城を陸・海に分かれて出発し龍王先より出帆、海路高来群へ向かい、一団は19日、神代に着船した。

 この地より上陸し、城を離れて大手の方、外郭の内小路へ陣を敷き、ここで軍の評定を行い三会に進出した。同月24日に両軍は激闘を繰り返し、沖田畷に於いて龍造寺隆信は、あえなく討死した。56歳であった。

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