袖引き坂(国見町神代地区) |
グリーンロードの「山ノ上」の表示から下ってくると、小さな辻に出る。この狭い坂が「袖引き坂」と呼ばれるには、古い歴史がある。(12/20/2002)
天正12(1584)年3月24日、龍造寺隆信は沖田畷(おきたなわて)の戦いで討死した後、島原半島の諸代は有馬晴信になびき、これに抗敵する者は神代たか貴茂のみであった。
貴茂は、浅井城・大坪城・岡城(瑞穂町古部)・長浜城・切通砦と本城鶴亀城を守ってなかなか降伏しようとしなかった。
晴信は、兵力をもって神代氏を攻略することは容易ではないと判断し、一計をもって殺害した。翌4月12日、晴信は一気に浅井・大坪両城を攻め落とし、逃げる城兵を追って兵を進めた。
鶴亀城目指して敗走する武将らに、難を避けようとする多くの村人達も加わって当地に殺到した。
道幅も狭く、急な下り坂に一時になだれ込んだ為、転倒して圧死する者多数であった。押しつぶされそうになって人の袖を掴むもの、それを必死に払う者、あるいは転倒した者を踏み越えていこうとする者、先を競って相争い、背後からは有馬勢に襲われ、阿鼻叫喚、四面に響いて惨烈を極めた。
戦いは神代氏の滅亡で終わったが、その後、非業の最期を遂げた多くの魂が浮ばれずにこの地に彷徨い、坂を通る人たちの袖を引くと噂された。また、この坂で転んだ者は自分の袖をちぎって置いていかないと怨霊に祟られ命を失うとも言われた。そして誰が言うとも無く「袖引き坂」と呼ばれるようになった。
国見町教育委員会の案内より