五島福江に来て明人堂に思う

 五島福江に来ている。朝一番の仕事を終えて午後の仕事の間にポッカリと時間が空いてしまった。(02/10/2003)

新しくなった明人堂Mapion

 市役所から昔の記憶を辿りながら歩いていて、どういう訳か明人堂に辿り着いた。今は福江町と言うが、地元の人には唐人町の北端と言った方が判り良い唐人橋の袂だ。昔と違って随分と綺麗になった明人堂のベンチに腰掛けて休んでいると遠い過去に思いは飛んでいく。

 その昔、当時の支那沿岸を荒らして廻った海賊船の首領、五峰大船主と称した明人「王直」の居館に祀られていた堂跡と言われている。堂の中に祀られている石碑は明人の道祖神とも守り神とも地元の人達は言うが、昔、唐人町に大火が有った時この堂だけが焼け残ったとの伝説で火伏せの神として地元の人びとは祀っている。

 この絵を見ると江川城(陣屋)の対岸に王直の館が有り、天文九年(1540)当時、王直が通商を求め深江(福江)に来航した際、当時も財政に窮していた藩主宇久盛定は喜んで通商を許し居住地を与えた事が本来なら川を挟んで二の丸とも云える地を選び与えた事からも判る。

六角井戸

 上の地図に有る六角井戸は現在でも残っており、唐人が船の用水等に使う為に掘った井戸だとも言われている。当時、王直の館が有ったという近くには「王直ゆかりの地」という案内柱も建てられている。

 倭寇と言えば松浦党や対馬人と思われがちだが明国も当時は鎖国しており海に貿易を求めるには倭寇(海賊)に成らなければ成らなかった実情もあったのだろう。

 明人堂の隅に石碑が祀られているが案内板には何も記載が無い。実は今この石碑を見ながら物思いしていたのだ。これには玉法童女と生浄土と記されている。随分昔に読んだ五島物語に拠ると、その昔いつとは判らないが明人堂を建立する折この下に当時九歳の童女が生きながら仏に成ったことを事を記したものだった。

 その時、七日七晩、地の底から鈴を振る音が聞こえていたという。この石碑は人柱と成った玉法童女の母が吾が子は神と成ったので、もう吾が子ではない。自分が死んだ後も、せめて誰かが水でも上げて祀って貰いたいと言って人が屈んでいる形の碑を建てたという。

 たしかに今も線香の真新しい灰が残り水が供えられてある。五島の人の優しさが伝わってくる。そんな事を思っていたら、もう半時も経って昼に成っていた。

06/09/2008未公開原稿に加筆修正

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