守山城址(吾妻町)

 諫早から国道57号線を行って、吾妻庁舎の先から右に入る。小高い丘が公園になっている。(04/21/2002)

 守山城は、室町時代初期(1400年代)在地の土豪守山氏によって築城され、代々その居城であった。守山氏は、早くから肥前の雄、有馬氏の外城を守る重臣として活躍し戦功をたてているが、諫早の西郷氏や神代氏と行動をともにすることも多く、有馬氏に叛旗を翻すことも多かった。

 城址の端に立ち、諫早湾の奥を見ると、諫早の街は指呼の間。この地にあって、西郷氏の時代は勿論、竜造寺の時代も諫早を意識しないわけには行かなかっただろう。

 特に、佐賀の竜造寺が勢力を拡大し(鍋島の前の隆信の時代)島原半島に進行するや、神代氏と共に竜造寺の軍門に下った。

 沖田畷(島原)に於いて、竜造寺が島津・有馬の連合軍に敗れてから、暫くの間、守山城は島津軍に接収され、その前進基地として島津の猛将達が加番した。

 天正15(1587)年、豊臣秀吉の島津征伐によって再び守山氏の居城となったが、天正17年頃、神代氏とともに有馬軍の謀略により夜襲を受け、この城で一族郎党と共に全滅し廃城となった。(守山一族終演の地と記される)

公園には踊子草が咲いていた

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