龍馬縁の新しいモニュメントを訪ねて  
 

 長崎市内に龍馬がらみの比較的新しいモニュメントが3箇所も誕生している。ちょうど近くに用も用件も有ったので訪ねてみた。(05/26/2010)

 
 

坂本龍馬偽者龍馬 筆者近影
もう少し斜めに構えれば龍馬らしかったかな?

 のっけから妙な写真が登場したが、モデルはさておき有名な写真を思い出さないだろうか。長崎で活躍した人達の肖像写真に登場した撮影場所が再現されている。坂本龍馬も此処の近くで写真を撮影したんだろう。

 ここは、日本初の商業写真館を営んだ上野彦馬の撮影所跡に出来た施設。誰でも龍馬気分で写真が撮れる施設だ。着流しに袴でも付けて撮って見ようかな。

 右上の写真の白壁屋敷が、この地にあった上野写真館。このモニュメントより北側に屋敷は有った様だ。なんにせよ多くの幕末の有名人達が此処で写真を撮ったのだ。

長崎市伊勢町銭屋橋上流北側
上野撮影局跡
Mapion

 さて、長崎市消防局で用件を済ませて、裏手にやってきた。ここは近代活版印刷の祖と言われる本木昌造が新町活版所を開いた場所。今は長崎県自治会館と成っている。

 活版所が出来たのは明治3年だから、龍馬が活躍したときよりは少し時代が下る。この本木昌造の本木家は代々オランダ通詞を勤めた家柄で、昌造も通詞となり出島で活版と出会い、これからの時代には印刷が必要だと考えたそうだ。その考え方は龍馬らと同じ新しい時代を先取りした人物だといる。

 これだけの人物でありながら、あまり長崎では名前が出ないのが不思議だ。そうそう本木昌造は長崎製鉄所の頭取も勤め、日本で最初の鉄の橋である「くろがね橋」を架橋した人物。

長崎市興善町6
新町活版所跡
Mapion

 この消防局の近くには法務局がある。法務局の敷地内で「お龍さん」に会えるそうだから寄ってみよう。

 この法務局の立っている場所は、もともと小曾根邸の跡地。小曾根家といえば豪商であり、勝海舟や坂本龍馬とも親交のあった栄(乾堂)は優れえた文人でもあったという人物。

 その小曾根家に、お龍さんが居て月琴を奏でていたとうい事から、この小曾根邸跡に像が建てられたといわれる。

 この写真をトップに持ってきたほうが良かったかなと反省中。

長崎市万才町8−16長崎地方法務局(合同庁舎)内
お龍さんと月琴
Mapion

 このまま、さっき出た「くろがね橋」まで下ってみよう。合同庁舎の横は長崎喧嘩騒動の発端と成った天満坂。長崎喧嘩騒動といえば、町年寄高木家と佐賀深堀藩のトラブルの事で、この話だけで一編が出来るような話なので、写真で天満坂だけ紹介しておこう。

 さて築町から浜ん町に向かって信号を渡れば、そこが「くろがね橋」だ。これも新しいモニュメントではなく、今でこそコンクリートの幅広の橋が架かっているが、先に述べた通り、新生日本で最初に架橋された鉄の橋である。

 鉄の橋が架けられたのに、その親柱が石柱というのも面白い。市内の人は鉄(てつ)橋と呼ぶ。

 鉄橋を渡って、浜町電停の手前を見ると、ここが海援隊の発祥の地とも呼ばれる土佐商会跡。後藤象二郎の話を踏まえて海援隊の話も良いが、ここで紹介するのは、その奥に新しく据えられた夕顔丸のモニュメント。

 夕顔丸といえば、土佐藩が購入したイギリス船籍の鉄の蒸気船。この船が瀬戸内を航海していたときに「船中八策」であり、後にイカルス号事件ではイギリス公使と龍馬が談判した舞台になった船である。

 なんにしてもスマートな船体に帆を張った姿は、なかなかの雄姿である。

長崎市浜町電停そば土佐商会跡
夕顔丸
Mapion

 さて、これで目的の新しいモニュメントは訪ね終わったが、海援隊という名前を出して土佐商会跡だけを訪ねるのでは具合が悪い。次は亀山社中に向かうとするか。

 
     

期間限定 01/02/2010〜02/28/2011
長崎まちなか龍馬館
095−821−2112

長崎龍馬通り 長崎県内に特化した龍馬情報

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