長崎県の散歩 十六羅漢の本光寺を訪ねて  
本光寺 山門 首なし地蔵 十六羅漢 深溝松平墓所

 藩主深溝松平家の菩提寺「本光寺」を訪ねてみよう。旧丸尾城跡の高台には重代の深溝松平氏の墓所がある。(12/27/2002)

深溝松平家墓所

 この地一帯は戦国時代末期に丸尾城が築かれていたところだ。墓域はその遺構を利用したものと思われる。深溝松平氏二代藩主忠雄(ただたか)をはじめ初代中房の生母、十代忠精(ただきよ)婦人のほか側室や早逝した子女の墓など二十三基と、灯籠十四基が整然とならび墓標を石の玉垣で囲った三河墓の形がよくのこされてます。

従四位松平姓源朝臣忠雄墓と刻まれている。

【家紋】深溝松平家の家紋:重ね扇

 近世の島原藩域(肥前国高来郡の四万石)は、鎌倉以来の有馬氏が晴信の改易とその子直純の慶長十九年日向県(延岡)移封のあと、元和二年(1616)大和五条から松倉重政が入部して、居城を有馬から島原に移し、その子勝家が島原の乱の責を負って改易されるまで、松倉氏の治世が二代二十二年間続いた。領域の半ばが亡地となった乱後の復興と、対外・キリシタン政策の第一の当事者である長崎奉行の支援のため、寛永十五年(1638)初めて譜代大名の高力忠房が入部するが(以後明治まで譜代領)、これもその子の高長が寛文七年(1667)に改易されるまで二代二十九年に過ぎない。その後一年四ヶ月の守衛期間をおいて、寛文九年(1669)幕府は福知山四万二千石の松平忠房(深溝松平)に二万石を加えて島原に移し、ここに松平島原藩が定着する。
 即ち、その後宇都宮の戸田氏との交換支配二十五年間(寛延二〜安永三年)を除き、廃藩まで松平氏十三代を数えるのである。

常盤歴史資料館

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