宝篋印塔型流死供養塔

 平成新山を残した噴火災害の記憶も薄れているが、島原は幾度も地震・噴火災害を被った。
(01/06/2002)

宝篋印塔型流死供養塔  寛政4(1792)年当時、この辺りは島原内港の船着場で城下随一の繁華街であった。

 旧暦4月1日(西暦5月21日)眉山の崩壊を伴う大地震は熊本・天草にまで大きな津波被害を出し、その返す津波が半島の18町村を襲った。世にいわれる「島原大変肥後迷惑」である。

 津波による被害を含む死者約1万5千人は、未だに記録に残る最大の火山災害であった。

 現在のアーケード中堀町に残る「宝篋印塔型流死供養塔」は、雲仙一乗院住職が溺死供養塔建設を藩の許可を得て実施したものだという。

 住職は、城下の有力者に勧進を試み、別当、乙名、商人達の協賛を得て寛政5(1793)年4月に完成。

 この供養塔は、塔身に梵字や「流死供養塔」の文字、そして溺死者の戒名が105刻まれ「宝篋印塔型」という特殊な形をしていることもあり、市の指定文化財になっている。

一番街アーケード

  現在も毎年5月1日には、地元町内会によって供養祭が営まれている。繁華街に、ひっそりたたずむ供養塔。こんなものにも眼を止めて欲しい。

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