島原城

 島原の乱の引き金となった松倉氏の築城した豪壮な城郭。失政で幾度となく城主が交代した圧政の象徴ともいえる。(12/20/2002)

 慶長19(1614)年、室町時代から戦国時代にかけて島原半島を支配していた有馬氏が切支丹政策に失敗して日向延岡に転封、代わって元和2(1616)年、大和五条から松倉重政が4万石の大名として有馬氏の居城であった日之江城に入城した。

 

 しかし、日之江城では領国を支配するには地の利を得ず、また有馬氏の治世を一新するため、松倉重政は元和4(1618)年、有馬氏の家臣の島原氏の居城であった森岳城跡に新たな城の築城に着工、延べ100万人といわれる人夫を動員し、7年余の歳月を費やして豪壮な近世城郭を築き上げた。これが島原城である。

 本丸には破風のない南蛮造りの五層の天守閣をはじめ、三ヶ所に三層櫓を築き、本丸・二の丸・三の丸が南北に連なる連郭式の豪壮堅固な城であった。

 初代城主の松倉重政はキリシタン宗徒を弾圧し、後を継いだ養子松倉勝家はさらに厳しくキリシタン宗徒を弾圧したうえ、相続く凶作にもかかわらず領民に重税を課した。
 島原城築城に際しての民百姓の塗炭の苦しみ、松倉氏2代のキリシタン弾圧、松倉勝家による重税が寛永14(1637)年に勃発した島原の乱の引き金となった。

 島原の乱後、松倉勝家はその責任を問われ斬首、遠江浜松より高力忠房が4万石で島原城主となったが、寛文9(1669)年、高力氏二代高長は暴政を行なったことにより改易、代わって丹波福知山から松平忠房が7万石で入封した。

 松平氏は5代続いた後、下野宇都宮の戸田氏と入れ替わるが、安永3(1774)年、再び戸田氏と松平氏が入れ替わり、以後、島原城は松平氏8代の居城として明治維新を迎えた。

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