新上五島町に国民宿舎しんうおのめ温泉荘を尋ねて

 朝から雨。台湾から台風が近づいている時に長崎港から鯛の浦に入って新上五島町を尋ねた。(09/29/2008)

龍馬ゆかりの広場
龍馬ゆかりの地(潮合騒動)

 五島産業汽船の、ありかわ8号で13時に長崎港を出て、14:40過ぎには新上五島町の鯛の浦港に着く。今回は日中、同行者も居るし中通島を何ヶ所か周るのでレンタカーを頼んだが五島産業汽船の軽レンタカーは全て予約済みだったのでトヨタレンタカー有川のお世話になる。このレンタカー15時前に受け取って24時間料金で引渡し期限は17時。高速船のダイヤに合うのが嬉しい。

今回の足、トヨタのパッソ

 今日の仕事と明日の打ち合わせを済ませて同乗者をホテルに降ろす。やっと自由時間が来て本日の宿、国民宿舎 しんうおのめ温泉荘に向かう。ここは一昨年から町によって建て替えを視野においての改修計画がなされているが、PFIにも乗ってくれる者は出てこないし、コンサルの見解でも町の予算、10億程度では集客力のある施設にすることは困難と判断され、今後の動向が気になるところだ。

 さて、最近開発が進む浦桑地区から車で15分ほど走って到着。朝から電話で予約したのはバス・トイレ無しの安いほうの和室。チェックインしたときに「夕食は17:30〜20:00。温泉は今からでもOK。朝食は07:00〜08:30と説明される。部屋は古いタイプの国民宿舎としては標準的。

宿泊料金(一泊二食)

6,825円

入湯税

150円

ビール大瓶

630円

合計

7,605円

 料金も一般的な国民宿舎の料金だ。

 さっそく「朝日・夕日が楽しめる温泉」に向かう。本日の男湯は向かって右手の狭いほうの湯船。温泉は加水はしてないが滅菌・循環をしているからか「温泉だ!」との印象は薄い。浴槽が深すぎて肩まで浸かるには正座して腰を浮かさないといけない。段が有るので半身浴には問題ない。

源泉名:曽根温泉 泉質:単純温泉(弱アルカリ性低張性低温泉)

 さて、温泉も入ったしメシだ。一階の食堂に降りると、なんと本日の宿泊客は私一人。それで浴場も狭いほうだけだったんだろう。チェックインの時に言ってもらえば食事時間を指定して、係りの人を無駄に待たせなかったのにと思う。

 標準の夕食に特に文句は無いが、アジとブリ大根は何度も火を通した感じ。刺身と佃煮は旨かった。誰も居ない食堂での食事は興が乗らないのでビールも一本だけで部屋に戻る。

 今日は台風+雨+月曜日って事を加味すれば普段の週末には賑わっていていると思いたい。次回は天気のいい日に来たいものだ。翌朝は食事時間開始の07:00丁度に降りて朝食を頂く。前記の通りの料金を支払って、そのままチェックアウト。仕事だ。

 仕事のほうは不調。まぁ新上五島は不調でも相棒が行った小値賀が旨く行ったから私のノルマとしてはOK。車を返すには少し早いので有川港ターミナルの鯨賓館ミュージアム(入館料200円)を見学。

 あいも変わらずの出張風景だ。(仕事はキッチリやってます。キッパリ!)

新上五島町小串郷
国民宿舎 しんうおのめ温泉荘
0959-55-3151

新上五島町有川郷2745
トヨタレンタカー有川
0959-53-0100

営業時間
(平日)
10:00 19:00 入湯料
(大人立寄)
400円 泉質 単純温泉(弱アルカリ性低張性低温泉)


【坂本龍馬とワイル・ウエフ号遭難(潮合騒動)】

 ワイル・ウエフ号は、幕末の土佐浪士坂本龍馬が薩摩の重臣小松帯刀の了解を得て、薩摩の援助のもと、長崎のグラバーより購入した洋型帆船で、土佐脱藩の浪士を主体として結成した亀山社中の練習船として使用をまかされた船である。

 船籍が薩藩であるため、命名式のために慶応二年(1866年)四月二八日、長崎を出航、長州藩の蒸気船ユニオン号に曳かれて五島灘を鹿児島に向けて南下した。

 ユニオン号は、ようやく成立した薩長連合による第一回の親善使節という含みもあって長州米五〇〇石を積んでおり、船脚を揃えるために両船はロープでつなぎ合わせていたが、五月一日午前六時頃甑島沖にかかった頃から東風が激しくなり、夜十時頃には大暴風雨に発達、両船をつないだロープは衝突を防止するために切断した。

 ワイル・ウエフ号の船長黒木小太郎は天草に避難しようとしたができず、北に流されて五月二日午前六時頃、島影を認めたと思ったとき船は浅瀬に乗り上げ、船将黒木は腰の刀を海に投じて神に加護を祈ったが、空しく大波にのまれ、士官浦田運次郎、薩藩士村上八郎、水夫市太郎、三平の四人のみが助かり黒木以下十二人が死亡する悲惨事となった。

この遭難場所が江ノ浜の潮合崎で、村人の急報で有川代官近藤七右エ門は早速、速船で現地に直行し、五島藩に急報した。これがいわゆる潮合騒動である。

 龍馬は寺田屋事件でようやく難をのがれて左手の傷を鹿児島で療養中であった。六月十四日鹿児島より下関に赴く途中、社中の一行を連れて五島に渡り、自分で碑文を書き、土地の庄屋に金と共に与えて碑を建立させ、同志の霊を慰めまつった。

 江ノ浜の共同墓地に今も碑文、遭難者名を刻した墓碑がたっている。

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