五島市の宗念寺を訪ねて

 五島市役所の北側に位置する宗念寺は、寛永11(1634)年、五島藩第22代藩主五島盛利公の生母、芳春尼が没した際、その菩提所として芳春山宗念寺として開基されたという。(01/16/2009)

Mapion

 日本沿岸測量で有名な伊能忠敬測量隊の関係者が福江で亡くなり、その墓が有ると聞いて、船待ちの合間に訪ねてみた。

 境内に入ると、左手に多くの地蔵尊や観音菩薩の像が並んでいる。よく見ると三体地蔵や四体地蔵も祀られているようだ。三体地蔵は二組で六地蔵を構成しているのか、六地蔵に先立って信仰されていた、過去・現在・未来の三界を救済する三体地蔵なのかもよくわからない。

 さらに判らない四体地蔵の両側の二つの三体地蔵は良く似ていて一対のような気もするが、左側に離れて祀られた三体地蔵は、類似しているが磨耗が進んでいる。どうもよく判らない。

 本堂の裏手の墓所に入ると、見慣れた六地蔵石憧が二基ある。写真左下の六地蔵の姿は、上の三・四体地蔵と類似している。

 さらに墓所の中に入っていくと、六地蔵どころか、七体の地蔵尊が並んでいる。地蔵尊の姿を見ると、左から二番目の地蔵尊が、やや形状が異なるので、一度に奉納されたものではなく、一体追加されたのかもしれないが??

 地蔵尊ばかりに目が行って、目的の坂部貞兵衛惟道の墓を通り過ぎてしまった。

 坂部貞兵衛惟道は、幕府御先手組同心で、後に数学を学び暦局天文方へ入る。文化2(1805)年から10年までの8年間、伊能忠敬の日本測量に加わり、測量技術、統率力ともに優れ、忠敬の右腕として活躍した。

 文化10(1813)年、宇久島から始まった五島の測量には、忠敬の本隊と分れ支隊の隊長として五島の西岸を担当した。

 若松、日ノ島の測量に入ったところで、連日の無理な測量がたたり、病に倒れ、福江城下に移送され療養に専念していた。しかし、その後、危篤状態になり、駆けつけた忠敬らに看取られながら43歳の生涯を閉じた。

 他の測量隊の仲間も福江に引き上げ、宗念寺で葬儀を執り行い、その亡骸は五島藩家臣貞方家の墓地に葬られた。

 五島藩は、貞兵衛の死を悼み、三日間、市内の歌舞音曲を止めさせたという。

〜五島市史跡解説板より

 墓所には芳春尼、坂部貞兵衛惟道以外にも、五島藩絵師の大坪玄能、明治期の図画教育に尽力した白浜 徴(あきら)等の墓もあるようだ。

長崎県五島市福江町642
芳春山宗念寺
0959-72-3024
(五島八十八ヶ所霊場26番札所)

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