元寇の地、鷹島を訪ねて

 モンゴル村の名前は知っていても、鷹島に渡ったことがない。松浦市との合併で鷹島も私の管轄になった。この機会に鷹島を訪ねてみよう。(03/20/2006)


橋の工事も進んでいる

 鷹島へ向かうには今福港から鷹島汽船の「フェリーたかしま2」で向かう。ジムニーの料金は1,800円、飛島経由で40分ほどで鷹島の殿浦港に到着する。

Mapion  

 殿浦港の周辺は、集落排水事業の管路工事で道は凸凹だ。鷹島の情報は何も持っていない。まずは旧高島町役場に向かう。知らない場所に来たときは港や駅の観光案内所でマップを貰ったりするのだが、殿浦港フェリーターミナルには何も無かったので役場にやってきたのだ。

 マップは無かったが文化財のコピーを貰うことが出来た。私としてはこれで充分だ。さっそく県指定文化財の大公孫樹がある今宮神社に行ってみる。まだ肌寒い季節では公孫樹は裸になっているが、この今宮神社は1148年久安4(1148)年に8代藩主・松浦久の子、直(なおし)が父のために満福寺境内の一隅に建てたと謂われる神社だ。参拝して船唐津の開田に向かう。

Mapion 船唐津港を望む

 開田の七人塚に到着。現在、モンゴル村がある鷹島は元寇の地でもある。碑文を要約すると

 文永11(1274)年10月17日頃、東浜に上陸した元軍は、博多湾に防衛の重点を置き、鷹島の防衛は手薄であった。

 わが防衛の不備を衝いて、島民のほとんどを虐殺。開田付近の山深い所にあった一家には、8人が隠れていた。目につきにくい山の中にあったが、不幸にも飼っていた鶏が鳴いたため、元軍に発見され8人家族のうち7人が殺され、灰だめに隠れていた老婆1人が助かったという。

 それ以来、開田ではニワトリを飼わないと伝えられている。(開田の悲墳塚ともいう。)

 近くの牧の岳公園にも廻ってみよう。ここにも元寇の碑文や供養塔があるが、公園内で三角点を見つけた。こんなのを見ると写真を撮りたくなる。三等三角点、三里牧ノ岳だ。鷹島の最高峰だ。

 もう少し北上してみよう。シーズン外れだが海浜キャンプ村も見てみる。さすがに誰も居ない。キャンプ場のテントを過ぎていくと元寇の鎮魂の碑が建立されている。

 原免の市杵島神社に向かう。ここでは県指定有形文化財の銅造り如来坐像が拝観できる。この仏像は元寇の折りに難破した元船に安置されていたものと謂われ、船唐津の漁師が網で上げたものだそうだが、仏様を上げた漁師も驚いたことだろう。

  Mapion

 元寇史跡巡りに成ってしまうようだが、次は対馬小太郎の墓に向かう。対馬小太郎は、文永11年の元寇で主君であった守護代・宗助国の一族80余騎の全滅を主君の命で太宰府に報告した。

 弘安4(1281)年、元軍が再び来襲。鷹島襲撃の知らせに、一族の敵を討つべく小弐景資の配下として鷹島に転戦、奮戦中に重傷を負い自刃した。

 小太郎の遺言は「我が屍を埋めるに対馬を望むべき丘陵に於いてせよ」と残したので、遠く対馬を望む丘陵に墳墓を設けた。

Mapion 壱岐・対馬は今日は見えない

 すぐ近くの住吉神社にアコウノキの巨木が有ると言う。それも是非見なくては。この里免の住吉神社の創建は古い。神宮皇后の朝鮮行きの際の寄港地で、ここで武運長久の祈願を行い一宮を設けたとの事。まぁ神宮皇后の話は置いたとしても、アコウノノキの巨樹を見れば、相当の歴史が有るのは間違いないだろう。

Mapion  

 阿翁浦まで降りてきた。この港に吉野屋旅館があった。もうすぐ河豚のシーズンも終わる。今度来るときは泊りがけで来たい。

 モンゴル村に到着。ざっと一回りして来たが泊まらないなら用事は無い。モンゴル村はゲルに泊まって温泉に入って何ぼだ。

 今回は日帰りで様子を見に来た程度のこと。次回は家内も伴って泊りがけで来たい。日比から肥前町に渡るが、その前に珍しい海中ダムを見てみよう。

 日比から乗ったフェリーから、工事中の橋が見える。長崎県なのに松浦市と合併したのに、橋は佐賀から架かる。21年3月には供用開始だ。

松浦市今福町浦免444−5
鷹島汽船代理店
0956−74−0205

松浦市鷹島町中通免
海浜キャンプ場オアシス村
0955−48−3155

12/07/2008アップ忘れに気が付いて再構成した

inserted by FC2 system