旧島原街道・安徳天と二位尼の碑

 諫早バイパス小川交差点から刑務所を過ぎて、夫婦木入口のバス停の先に左折する道があります。旧島原街道有喜往還の雰囲気が味わえる良い道です。(11/10/2001)

2008年現在は簡易舗装がされています  急な登りの簡易舗装の道が平坦になって、しばらくすると、簡易舗装も無くなって、昔の街道を偲ばせる、静かな旧島原街道になります。

 きょうここを散歩しているのは、安徳天の碑を見るためです。

 ご存知の通り、安徳天は壇ノ浦の合戦で入水し平家が滅亡したと伝えられていますが、その悲運の安徳天を偲んで、安徳天の碑を安置して夫婦木の人たちがおまつりしています。

 久しぶりに通る旧街道は、枯葉の道に成って

踏みしめると柔らかな感触が伝わってきます。(2008年現在は簡易舗装がされています)

 安徳天の祖母、二位尼の碑は以前、お参りしたのですが、そのとき訪ね損ねた、安徳天の碑まで行くつもりです。二位尼の入り口を過ぎて、ほんの300m程で、入り口を示した石柱が立っていました。石柱は最近整備されたものですが、この階段は夫婦木の人たちが、ずっと整備しているものです。

 よく手入れされた階段を上がってみましょう。

 50mも上がってくると、少し開けたところがあり、安徳天の碑が現れます。

 境内ともいえそうな敷地の入り口を安徳天の碑は向いていません。安徳天の向いている方向を確かめると、夫婦木の集落を向いています。自分を祀ってくれる、平家の縁につながる者を見守っているようです。

 まわりはきれいに手入れされています。聞くところによると、いまでも毎日訪れる人がいて、年に二度4月と9月の15日には夫婦木の方達が祭礼を行っているそうです。

 供えられた柴も、青々としています。片方の柴が傾いていますが、夫婦木の者でないタヌキが手を触れるのも憚られますので、そのままにしておきまして、お参りを済ませました。

 帰りに二位尼の碑も訪ねてみました。
こちらのほうは、以前訪れた時と同じで、打ち捨てられたような風情です。

 
林のなかにひっそりと・・・

<メモ>

安徳天の石碑について

 昭和40年頃に、郷土史家の田中為市氏が、この地を訪れ、古老に確認したところ、「明治初年頃、部落の鎮守様、阿弥陀明神の鳥居が倒壊したことが有る。そのとき部落のあるものが、その鳥居の石材を使って安徳天皇の碑を刻んで建てた。しかしその人は安徳天と三文字にとどめ、皇の字を加えなかった。これはもし、安徳天皇と刻んで、お上から咎められても大変だと心配したからであった。左側の自然石(現在は無い)の碑は、別の人の碑ではなく、以前から有ったものを、そのまま立ててあるにすぎない」(田中氏の諫早史談から引用、同書に写真もある)

 このお話は、古老から田中氏が聞き取ったものだから、間違いの無い話であろうが、現在無くなっている、もとから有った碑に注目したい。必ずしも真実とは考えていないが、この夫婦木には、安徳天皇が、壇ノ浦から、大分に逃れ、豊前から肥後、更に筑紫潟(有明海)を渡って、島原の安徳村に、しばらく滞在されたが、なぜかそこに冠を残し、雲仙を超え、串山村から、船で有喜の港に着かれ、この夫婦木に逃れたが、この地で源氏の軍勢の軍勢に倒れ、崩御されたの言い伝えがある。そして、この地に手厚く葬ったとある。

 わたし自身としては、この地で崩御されたことにして、源氏の軍勢の追求を逃れ、更に対馬の地まで、行かれたと思いたい。(ロマンが有るじゃないですか!)

 そこで、先ほどの失われた、古い碑が、その際の安徳天皇の、偽りの墓石であると思いたい。本当は、その真実をしっていた、夫婦木の末裔が、改めて安徳天の名を刻んだと・・・・

二位尼碑について

 この碑は、地元で「ばんばさん」と呼ばれているが、安徳天の御祖母様であるから当然かもしれない。この碑は、正しく安徳天の碑に向いて建っている。

 なぜ、打ち捨てられているように藪のままなのかは、この地の木を切ったりすると、怪我をしたり病気になったりするので、それを畏れて、手をつけないのだという。

05/10/2008更新

fwd-net長崎・諫早へのリンク

inserted by FC2 system