永昌宿跡・代官所跡

 国道207号線とJR長崎本線が交差する永昌交差点からk北西一帯が佐賀藩の代官所から追分までが永昌宿跡だという。(02/11/2002)


写真でトンネルの上線路周辺が宿場

 長崎街道25宿のひとつ。矢上宿から3里半、大村へ3里。長崎街道は永昌で分かれ多良から佐賀へ向かう諫早浜(多良)街道、有喜から島原城下へ向かう島原街道などになる。

 旅人は早朝長崎を出発し夕方この宿につき、翌朝大村に向けて再び出発した。代官屋敷、代官所、俵官所、俵銭方、駅場などがあった。 

 天明3年(1783)の諫早日記・佐賀藩郷村帳には「新宿」とあり、はじめは諫早町(城下)が本宿にあてられ、天明の頃から次第に永昌宿が整備されていく様子がわかる。

 本陣には、その後も城下の安勝寺があてられ、文政12年(1829)には江戸参府のシーボルト一行も安勝寺に泊まっている。

「町の長さ三丁斗皆農家にて、茶屋商家僅に二三軒に過ぎず。宿屋といふも定まりてはあらず。問屋につきて宿を求めて山口半次郎といふに宿る」   (菱屋平七『筑紫紀行』より)

【佐賀鍋島藩代官所】

 諫早家の鼻祖、竜造寺家晴の頃には手を出さなかった佐賀鍋島藩も、二代直孝(なおのり)の代になると直孝が病弱で有ることもあって、江戸表への参勤が叶わず、姓も諫早と変えて鍋島の家老格の家臣に成った事から諫早藩への圧力を強めた。元和5年(1619)に藤津郡七浦以東一万石を佐賀鍋島藩より借用された。(取り上げられた?)

 名実共に佐賀藩の属領となった諫早藩から、寛永年間には深海、西長田、小豆崎、中山、福田、大渡野、栄田、真崎、小船越、貝津、栗面、平山、土師野尾、小川、川床、有喜の十六ヶ村三千石の菜地を勝手不如意といって前回と同様借用と称して返さなかった。

 このように佐賀鍋島藩が諫早藩を押さえ込んだいたときに、本藩の威光を嵩に監視していたのが代官所である。代官所への不満が高じてか以下のような話が残っている。

 幕末の頃、杢どんという、鼻息の荒い、がめつい代官がいた頃の話。ある日、大村の志士で剣豪渡辺清という者が、島原へ馬を買いに行って帰りに、代官所の俵銭方を通ると、杢どんが俵銭(通行料)を出さんと通さんと言ったところ、渡辺清が「大村の渡辺を知らんのかと大声で叱り付け馬上で太刀を抜いた。

 怖いもの知らずの杢どんも青くなって逃げたと言う。この杢どんの先祖は、御館山の稲荷に自分の身体をやるから金持にしてくれと頼んで、金持ちに成って死期が迫った頃、身体をやるのが怖くなって、小長井の石工に重い石の棺を作らせ、これなら狐も身体を獲れないだろうと思って運ばせようとしたら、突然、天候が荒れ始め海のそこに石の棺(櫃だともいう)が沈んでしまったという。

 このような話が伝わったのは、佐賀の代官を貶める事で、憂さを晴らしたのではないかと思えるが、いかが?(小長井町には引き上げられた石棺があるとか?

<メモ>

 写真のトンネル手前の交差点の手前左側、坂の途中が佐賀藩の代官所跡、旧国道の向こう側に代官所跡の案内標柱が有るので、場所が勘違いされやすい。そしてニュータウンに向かう、この四車線の手前歩道部が長崎街道。街道の案内板のところから、階段を上がったところが、この写真の撮影ポイント。

 撮影位置を、通り過ぎると、前方に永昌追分が見えてくる。

05/30/2008更新

04/27/2008更新

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