諫早藩役屋敷跡(長崎市矢上町)

 長崎市矢上の旧道を入ると番所橋がある。現在は卸団地と言ったほうがわかりやすいかもしれない。卸団地と旧道が交差する近くにある。

 役屋敷は長崎開港につれ佐賀藩主、諫早領主、肥後藩主との報告、連絡、紛争、願書の処理などが頻繁したために諫早領地の西端であるこの地に設けられたものである。

 往時には藩士3名で執務し、この付近の民事・刑事のことから、その他一切の仕事を先決処理した。

 敷地には武道館や武道稽古場、娘、子供の手踊りの稽古場があったと言う。

 明治になって民間に払い下げられ一部改修はされているが面影は残している。 

 屋敷の石垣は、「亀の子くずし」という積み方である。この工法は高い技術が要求される。幕末長崎街道の往来が頻繁になり諫早領石工の技術を往来の人々に示したかったのだろうか。

 ここで、長崎側の藩境から、ちょっと散歩してみよう。最初は団地の住宅街の中の藩境石。
 日見側に「彼杵郡之内日見境」と矢上側に「従是北佐賀領」とある。宅地造成により、現在地に移されている。

 このあたりの地名を鳥合場(とろしば)という。めずらしい地名であるが、地元では、江戸時代日見から矢上、矢上から日見への荷物の運搬業務を取り合った(鳥合場=取り合い場)場所だからだと言う。

 藩境石からは、車が入れないようになっていて、市街地の中を気持ちよく歩いてきたが、番所橋に向かうために下に降りてきて、現在の34号線から、旧道への別れ道。

 別れ道の側には、濱ノ大王神社がある。

 街道は明治新道として改修されて、道幅も広くなっている。写真正面の現浜田食堂付近に番所があった。
 正面の橋が番所橋であるが天保9年(1838)眼鏡橋が架けられたが幕末の大洪水で半壊した。明治5年もとの石材をつかって架けたが大正11年大地震で壊滅。翌年鉄筋コンクリート橋となる。昭和57年の長崎大水害で破壊。新しく架け直された。
 左手に立派なクスノキが見える。矢上八幡神社の大楠で、長崎市の天然記念物に指定されている。

矢上八幡神社】から【矢上神社】と抜けて、行くが、この矢上神社に、矢上宿址の石柱が立っている。

 教宗寺を過ぎて国道を並行する。現川を越えるが、この川上に、【歳宮】がある。八郎川を越えて対岸に行き、本来の長崎街道とは着かず離れずの川沿いの道を行くと左の写真の【役行者神社】がる。

 なんだか、旧矢上村の神社案内になってしまった。

 神社のすぐ先に藩境石があり、「従是南佐嘉領」とある。矢上側が佐賀藩諫早領であり、古賀側が公儀天領となる。石標のそばに60cm四方角の台座石がある。この台座石を2個組み合わせて、その上に領境石標がたっていた。 古賀村側の石柱は移設されている。

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