諫早街道(永昌宿〜多良宿)

 諫早街道をご存知でですか?多良海道ともいいますが、佐賀領諫早藩の永昌宿から、佐賀の塩田宿までの、有明海沿岸の街道です。今回は多良宿まで行ってみましょう。

 JR諫早駅から、永昌商店街を通りぬける。このあたりが往時の永昌宿。ここから交差点をわたって、諫早神社の前に出ます。道中の安全を祈って、お参りしていきましょう。境内をでて、飛び石を渡ります。

 本明川の堰堤道路を横断、もう一つ道路を横断して、天満町(旧笹神町)に入いる。寿司山忠さんを右折。そして左折、やっと車が離合できる道を通ります。蓮光寺を過ぎて、堰堤道路に出たところが、筝曲「六段」発祥の地、慶巌寺です。道路が合流する手前の磨壁仏をチョッと拝見。手を合わせてから、堰堤道路を更に東へ。江山楼さんは、長崎の中華の老舗です。ここのチャンポンは美味しい。まだまだ昼前です。今日のところは、通過しましょう。ここに接する地域が高城のお城の二の丸(正林城)があった所ですが、眼鏡橋用材の石切場になりましたので、跡形も無くなりました。


(広報いさはやから参考図に転載)

 安勝寺にやってきました。慶長19年に諌早氏二代藩主直孝公のときに建立された、諫早の古いお寺の一つです。ここの鐘楼は、建立された元禄年間から、戦争末期の昭和19年までの220年以上にわたって、時を告げ続けてきました。そして、除夜の鐘は、どなたにでも撞かせてもらえます。

 安勝寺を過ぎて、旧眼鏡橋(水道橋)から、左手に入ります。本明川には、ここでお別れです。右に銃砲店の前を通り、八天アーケードを越えて、昭和通りに出ます。右前にカニ屋さん。食べ物ばかりが目に付きます。昭和通りを横断して、光江橋からの交差点あたりが、「岡田堪忍場」です。この交差点に右下の三角の屋根が乗った門柱が両側に建っていたそうです。

  郷土館の岡口門柱の笠石

 藩政時代は、ここで領主の到着を待ったとの事です。海路では、諫早の津の隣接地であり、旧諫早城下の入口になりますね。街道には笠石を被せた二本の石柱が建てられていて、城下の門が構えられていたそうです。

 そのまま、直進をして、一里塚跡まで辿り着きます。貝津のさやんごぜから、栗面を経由して、ここまで一里とのことです。

ここから左手に行き、土園川橋(どぞんこばし)を渡ったところで、千人塚です。この塚は、竜造寺の伊佐早攻めの際に討ち死にした、西郷側の兵士を祀っていると言われますが、祀られたのは近年になってからで、そのいわれは、下記の通りです。

 昭和の始め組中に病人やけが人が絶えなかったが、この石碑を祭ってから、それが消えたといいます。裏に「土園川組中 昭和十一年五月廿三日」などと刻んであります。

 この先は、住宅街を諫早街道は通過しますが、道は切れ切れで辿ることが出来ませんので、すこし遠回りをして、土園川橋を戻って、福田川沿いに上って、福田神社に出て、そこから東に行って、207号線の手前から、左に入って見ました。本来の諫早街道は、このまま207号線を斜めに渡って、また川沿いに207号線に戻ってきます。

 上の地図の東諌早駅は旧駅です。ここからJR長崎本線沿いに進んで、戦国時代、小豆崎の領主東房紀守が建立した法輪山妙本庵がその起こりという妙本寺の下から、また207号線にもどる。当初の道は、この寺の前を東北に登って行って、約1`あまりで長田川を飛び石で渡ったといいます。

 その後の江戸時代の絵図には、妙本寺の下をしばらく行ってから、干拓地のほうへ200bほど南下し、左折して水路のわきのいわゆる「たてみち」を東へ直進しています。

  郷土館の標柱

ここから南下しました。右上がその標柱

 この道は207号線と交わったところで横断して、西里町の集落下を通ります。しかしこの諫早街道は、この途中で道がなくなりますので、西里町の入口まで、このまま、国道沿いを進みます。

 本来の街道が207号線と交わったところで、水路に沿って左折して、西里町の集落下を通ります。道端の水路はきれいな水が豊かで生活用水に使った「洗い場」が各戸ごとに残っています。

 JRの踏切を越えてしばらくで天満神社前に出ます。ここから右折して大川橋で長田川を越え、まっすぐJA県央長田支所の前を過ぎると、間もなく旧長田小前に出ます。その道前左手に土橋貞恵翁の生家跡があります。この道をまっすぐ上り詰めた所に大歳神社があります。ここからの眺望はすばらしく籠立て場になっていました。

 大歳神社から、下って田圃沿いに歩いていくと、ちょっと上り坂になってきて、農道から分かれます。別れ道のところが、三本松の一里塚です。ここの一里塚は、よく原型を留めていますが、随分現在の道から外れているからでしょうか?

 一里塚から先は、古道を傷めずに、きれいに整備して頂いています。(感謝)気持ちの良い道を抜けて、正久寺の集落です。正久寺の集落を出る前に茶屋跡の標識が出ています。

茶屋跡

 茶屋跡を抜けて高天町に入ると、尾首の観音の前に出ます。ここは諫江八十八ヶ所霊場の24番札所の弘法様も祀られています。

尾首の観音堂

 尾首の観音から上って、農道の記念碑を通り、良い雰囲気の道を登ると舗装路に出る。少し上がると三番目の写真の辻に出る。ここにも街道の案内柱が有るので、そのまま進めば籠立場に出る。

小休止。

白浜の籠立場

 道なりに更に自然道を進んで猿崎にでて橋を渡って、高来町船津に入る。川沿いから一本中に入って、少し行けば、さかなか坂の案内柱が目に付く。

さかなか坂

 さかなか坂を上がると辻に弘法様が祀ってある。ここを十王堂と言うのは左手の十王供養坂石のためだろう。ここを、ちょっと上がれば天初院さんだ。弘法堂に戻ると、犬を連れた女性が、お参りの最中。この犬、私が狸だと気が付いたのか、しきりに吼えるのには閉口。

天初院 十王堂

 さて、ここから十王堂坂を下って小江に向かう。

 小江の集落に出てくる。この道をJR小江駅前から現在の国道207号に出る道は、この道にバスが通っていたと言われると「こんなところをと思ってしまう。そんなことを考えていたら一里塚跡を見落としてしまった。小江駅を過ぎて線路を渡って上る。

 桃木茶屋跡に出る。昔は農村に店を開くと領民の生活が贅沢になるので、常設の店は許されなかったが、ここは旅人の用に供するため許された茶屋であった、往時は大層な利を上げていて、千両箱が有ったとか無かったとか?その先は子安観音様。安産にご利益があると言われる。

桃木茶屋跡 子安観音

 さてさて、この辺りは往時の物が多い。すぐ行って坂の右手には隆信さんの腰掛石が道端にある。坂を上がりきる辺りに六地蔵が祀られ、この辻を北に行けば鏡円寺。この鏡円寺には、なかなか良い石の太鼓橋がある。時間が有れば見て欲しい。

隆信さんの腰掛石 鏡円寺入り口の地蔵尊 六地蔵?

 六地蔵から降って、犬木新開に出る。川を渡った先には、犬木新開の説明書が建てられている。

 この先を上る途中の右手の石垣が有るのが犬木茶屋跡だと思うが、よくは判らなかった。上りきって坂を下って田島川を超えて、高来中学校の下を行く。湯江川に近づいて水準点を左手に見て進むと天照皇大神の小さな社がある。その先の湯江川の橋の手前で左手に入って和銅寺に寄り道。

天照項大神 和銅寺

 和銅寺は二島五州の太守、竜造寺隆信公が荼毘に付された地でもあり、しばらく休憩がてら境内を散策する。創建に関わる行基菩薩の七観音の話でも有名な古刹。

 さて湯江川を渡って光宗寺の手前から左手に寄り道して、お茶屋みちを辿り上使屋跡(ここで言う茶屋とは上使屋のことで、佐賀の殿様や幕府の巡検使が使う。諫早領内では矢上・諫早・湯江・太良・竹崎に有った)を見る。

お茶屋みち 上使屋跡

 そのまま抜けて、高来町住民センターに出てもいいが、一旦戻って湯江駅前を過ぎて平田川(へーたご)地蔵の前を通り農協支所前から左折しよう。ここが本来の殿様道。

 しばらく行くと、右手に一里塚跡の案内柱が有る。

平田川地蔵 一里塚跡

 湯江小学校の角を右折して橋に出る。この橋の上流が釣戸の渡し跡。橋からまっすぐ突き当りが川上原の茶屋跡。いまも懐かしい赤いポストが現役で迎えてくれる。この辻を左折して川上神社に向かう。

釣戸の渡し跡 川上原の茶屋跡

 川上神社の一の鳥居から右斜めに道をとれば、もう追分に出る。「ひだりたらだけみち」「みぎたけざきみち」である。このまま太良越えをする道は、昔は山賊まで出た人気の無い山越えの道。それで一人旅の者や、足弱なもの荷物のある者は、右手の竹崎街道を選んで、竹崎から船を使ったりしたという。

追分

 太良越えの道を選ぼう。境川沿いの新しい道の一本内側の旧道を選んで坂元の集落を抜けて広域農道を超えた辺りが「つめきり坂」、更に冷水坂を超えて兵樫谷の堤に出る。この堤の北側に祀られているのが享和3年建立の水神様(りゅーごさん)。この先で一旦新しい道に出て猪の塔斎場の前を通り抜けたら、左側に猪塔(ししのとう)が建つ。

 碑文に寛文三(1663)年と有るから、それ以前の事、現在の黒新田(くろんた)に猟師重太郎という猪打ちの名人が居て、もうすぐ一千頭の猪をしとめることが出来る頃、愛犬の山子(狼との混血の犬)を連れて、猪打ちに行くが妙に眠くなって、うとうとしていると、山子が激しく吼える。しまいに飛び掛ってきたので腰の刀で打ち払うと、山子の首が、すぐ後ろの大木の幹に噛み付いた。

 大木の幹と思ったのは大蛇の胴で、その鎌首をもたげた頭は、重太郎に毒気を与えて眠りに誘っていたのである。重太郎は鉄砲に二つ玉を込めて大蛇の頭を打ち抜き仕留めた。

 愛犬の山子は、主人、重太郎を守ろうとしていたのである。その後、重太郎は徒に数を競う数打ちを控え猪達の霊を慰めるため、猪塔を建てたという。正式には三界萬霊洪沐恩と刻まれている。

溜池の水神様 猪塔

 猪塔の100m程先に自然道の分かれ道があり、ここが多良岳の一の鳥居跡。明治7年に台風で倒れてから再建されずにいる。付近の藪の中には鳥居の部材が今も残っている。

多良岳参道の一の鳥居跡 残された鳥居の部材
  辻の左手前の藪の中

 このまま下って、川を越えて道なりに中古賀の集落に入る手前に、本来の長崎街道殿様道、自然道の入り口があるが、とても一人歩きは出来ないので、集落を抜けてとにかく上流の井崎橋まで向かう。この井崎橋は橋の名前で有ると共に、この地域の呼び名でもある。殿様道の管理・荷渡しを、小長井の井崎の集落の人が受け持っていたので、この地に井崎の名前が有るのだと言う。

 鳥越から深谷の上を通って行くが、深谷には山賊も潜んでいたという。山神の堤の東側を上っていこう。

井崎橋 山ノ神溜池

 堤の先には「長坂入り口」の案内が出ていて、山茶花の茶屋の前に出る本来の道だが、ここも藪化していて通れないので回り道を勧めます。

長坂入り口 山茶花の茶屋跡
上の方はなんとか通れました  

 さて、茶屋跡から先50m程で、ここは完全に藪化しています。一旦、山茶花の溜池の堤に上がって休息して考えた。この溜池の山茶花高原ハーブ園の前を迂回するか、本来の道を藪コキして突き進むか?

 結果は堤防を進んで3mほど崖を、よじ登って佐賀県側に出ることにしました。道路に出て下って、本来の道に戻ったところで、平成12年に街道マップを作成した人達による多良海道の碑に出会えました。(少し藪を払って撮影)

山茶花の溜池 多良海道の有志が建てた石碑

 また舗装された道に戻って多良を目指します。この先を太良町風配(地)区と言いますが、どうも太良と多良を誤って使いそうです(汗)。まずは八天神社に向かいます。ここから2.5kmほど有りますが、概ね道なりで、迷いやすいところには風配区の健康の森公園を目指せば判ります。

 道なりに進んでいくと、峠道で天文台が右手に見えます。そこを過ぎれば気持ちの良い眺望が開けてきます。糸岐の多良宿は間近です。

天文台 多良宿、現在の太良町中心部を望む

 ここから、気持ちよく道なりに下っていくと、手前の亀崎に降りてしまいます。分かれ道では、左手左手に進んでいかないといけません。まぁ多少間違えても大差ありませんけど。ご庵坂に出てしまっても弘法様に会えないだけで降りてしまえば同じ場所に出ます。

水場の弘法様 糸岐川を渡る

 太良の駅前には出ずに踏み切りを渡って線路の西側を通って小中学校の前を通過して駅を過ぎてから、線路を再び線路の海側に出ます。これが本来の街道です。再び橋を渡った辺りから多良宿です。中心の円教寺に付きました。

太良小学校・中学校 円教寺

 円教寺の、すぐ海側の左手には大魚神社があり、右手は上使屋です。また、矢筈に向かう宿場外れの庄屋屋敷には立派な石橋が架かっています。

【メモ】

 現在の長崎市の矢上から、藤津郡太良町の多良宿までが諫早藩の領地でした。もっとも多くの村を佐賀本藩の蔵入地とされ、深江のように深堀鍋島の飛び地もありましたので全てとは言えませんね。

 この街道を多良街道とも呼びますが、私は街道全体を諫早街道と呼んでいます。小田宿〜多良宿までは多良街道でも異論はありませんけどね。

 そして、諫早街道の脇街道が竹崎街道。ここは殿様道というより一般の旅人や領民が使っていた街道だとも言われています。

04/20/2008更新

マピオン版とリンク、飛び石の写真差替え04/05/2008更新

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