諫早街道(小田宿〜多良宿)

 諫早街道をご存知でですか?多良海道ともいいますが、佐賀領諫早藩の永昌宿から、佐賀の塩田宿までの、有明海沿岸の街道です。今日は、小田宿(佐賀県杵島郡江北町)から多良宿(佐賀県藤津郡太良町)まで行って見ましょう。

小田宿の馬頭観音堂

 江北町上小田の御幸橋を見て天子神社に安全祈願をしてから出発します。小田宿の長崎街道沿いに目に付くのは馬頭観音堂。長崎街道の案内や駐車場も整備されています。馬頭観音は奈良時代に行基菩薩により楠に彫ったと伝えられていますが、残念ながら焼失しています。ここからカラー舗装された道を辿って一旦国道34号線に出てから、IIDAと書かれた配送センター風の建物を過ぎて、江北町役場に入って、旧街道です。

新宿交差点を望む

 肥前山口手前の六角道追分、から国道207号線に向かいます。 新宿交差点を超えて東分、江北小入り口と国道207号を下ります。500mほど行くと東古川(六角川の蛇行が古川として残ったもの)手前の交差点から左折して、今は橋がなくなった所を本来の街道は進むのですが・・・・・・・

橋の無いのを振り返る

 田圃の畦道を下り、小さな橋の手前から右斜めに国道207号線に戻ります。そのままチョッとクランク気味に突っ切って西古川の西側を川沿いにまた207号線に出て右折。六角川の渡しは今は使えないのでトラス橋の六角橋を渡ります。ここで渡し場跡の金比羅様に寄って行きましょう。

 参拝の後は、207号を突っ切って、白石消防署の前を通り、JRの踏切を越えたら新光寺。ここから六角宿になりますが、やっと街道らしい雰囲気のある町並みになった。六角郵便局の辺りには御茶屋もあったという。六角郵便局の先を信号を渡って直進する。

 白石高校の前を通過して、変電所と鉄塔の間を通過して揚田で道はT字路に突き当たる。右折して次ぎを左折、また次を右折、そして左折、小さなコンクリートのお堂の江越地蔵を過ぎて吉村に入ると、右手に小さな社が見える。ちょっと寄り道していこう。

吉村天満宮

 歴史ある吉村天満宮の、その鳥居は天明4年(1784)の建立、近年、参道の南端から現在の位置へ110m程移動して現在地になったが、その後、平成17年4月の地震で倒壊。破損した部材を新しくして建立したもの。

吉村天満宮由緒書を見る

 参拝を済ませ神社前から高町に向かう。750m程行くと広い通りを右折。400m程行くと交差点手前右手に高町宿の地蔵堂がある。この地蔵堂から左折したら高町宿。ここも街道の宿場町の雰囲気を感じる。

高町の町並み

 街道からは鳥居が大きすぎて写真が撮れない。稲佐神社の参道側に入って裏側から撮影。鳥居は一の鳥居であると案内板にある。扁額は正一位稲佐宮と記されてあった。今出来のコンクリートの大鳥居ではなく、本物の石の鳥居。これ程の鳥居のある神社が県社とは信じられない。チョッと寄り道してみよう。

稲佐神社の一の鳥居裏側稲佐神社の一の鳥居の扁額

 750m程行って辺田の交差点を過ぎると、程なく自然石の石畳と言いたくなる様な石段に到着。立派な石の参道橋を渡って上を見ると、立派な肥前の鳥居が見える。肥前の鳥居とは棟・貫・柱が全て3分割された優美な鳥居。佐賀鍋島の領内で、この鳥居が残る神社は、古くから格式があり、途切れることの無い信仰が有ったという象徴のようなもの。案内板によれば佐賀県内の最古(天正13年1585)の肥前の鳥居だという。これを見ただけでも寄り道した甲斐はあった。

稲佐神社の参道口の神明鳥居と石の参道橋県内最古の肥前の鳥居

 神仏習合時代、弘法大師空海が大同2年(807)に勅許を受けて鎮守大明神として一社を設け、全山を稲佐太平寺と名付けたという。現在は三ヶ寺しか残ってないが、もとは16坊を誇ったという。(稲佐十六坊跡の説明から)これでここが県社の扱いの理由がわかった。神仏習合の色合いの強い神社は、国家神道からは低い扱いしか受けなかったし、なかには延喜式でも式内社に上がっていない社が多い。薀蓄はさておき立派な神門(享保9年8月1723)と鐘楼(享保6年1721)を見てみよう。

神門というより楼門と言いたい。稲佐神社の神門稲佐神社の鐘楼

 拝殿に進んでみる。境内には県指定天然記念物の楠の巨木が立ち並んでいる。眺望を楽しみながら境内でしばらく休憩。途中で求めた弁当を頂く。コンビニ弁当でも良い場所で食べれば旨い。

 こんなに寄り道ばかりしていると、今日のうちに多良まで着けない。名残惜しいが街道に戻ろう。

稲佐神社の拝殿稲佐神社の楠の巨木

 大鳥居から川沿いに南下して、有明西小学校の脇も川沿いに通過、学校の角で錦江のいぼ地蔵に出会う。その脇の今橋を渡って道路に出て左折。

錦江のいぼ地蔵

 広い道を進むと、宝島という左手に小山が見える交差点を左折する。消防団の手前に、なにやら石像が見えるが、元は城実坊境内であったそうで、大権現放生池宮司法印周厳律と刻まれた石塔(観音像の右側)が、示すように放生池があり憩いの場所であったそうだ。小山に沿って右手に廻ると佐賀型の六地蔵と思惟地蔵尊がネットの奥に見られる。

宝島地蔵群の放生池宝島地蔵群の思惟地蔵に佐賀型の六地蔵

 そのまま小山の裏まで進むと、彦島神社。小さいが木造の神門もあり鳥居の手前には石の参道橋もある。この神社にも興味がわくが先を急ごう。鳥居を背にして南に向かう。

彦島神社

 神社から100mも行くと交差点に出るが細い道を直進。山沿いに坂道を上りきったところで道が分かれる、直進すれば海童神社経て207号に出るが、ここは右折してもう少し上る。先ほどの宝島交差点から直進する広い道に出たら道を横切り有明西小学校に向かう。小学校の前を下って、深浦天満宮を過ぎる。

有明西小学校 深浦天満宮

 坂道を下りきって農地に出る手前で右折集落を抜けて、左手に農地を見ながら集落沿いの道を進む。三叉路に出たら右折深浦聖観音に到着。

深浦聖観音

 聖観音から貯水池の手前で左折。道なりに進むと右手に清水(しょうず)跡が見れる。

しょうず跡

 しょうず跡から50mも行けば水路沿いの三叉路の右手の上に琴平神社が有る。神社に登る前に鳥居の脇の記念碑を見ておきたい。電燈建設記念碑だ碑文に大正10年8月の文字と建設委員の氏名が記されています。

琴平神社琴平神社の電燈建設記念碑

 塩田川に出て右折。ここは鹿島宿から見て北に当たる。往時は北の浜もしくは「ながはま」と呼ばれて近道の渡しが有ったそうだ。今の国道207号の百貫橋の上流側か?

 渡しは使えないので深浦ダム洪水吐を右手に見て川沿いを600m程行って右手の旧道に入る。500mも行けば元の道に出てすぐ古渡橋が見える。この橋は数年前までもう少し下流に有った様に思いながら渡ると、街道に直進できる。やはり100m程場所が変わっている。700mほど行けば右手に鏡智院。

鏡智院

 鏡智院から国道498号に出て左折、警察署前の変則交差点を鹿島警察署の方に進む。乙丸郵便局の先、乙丸交差点の手前を右折。掘割に架かる橋を三つ超えたら突き当たりを左折。すぐに旧道に出るので右折する。ここから横沢橋までの現在の鹿島本町の中間辺りが元の本町と魚町の境で鹿島宿次ぎ場であったそうだ。

 横沢橋を渡って新町に入ってからも、銘酒竹の園醸造元(矢野酒造)など、この辺りも街道を意識したような町造りが感じられて楽しい。少し行くと右手に清水観音が祀られている。ここが一里塚跡。

銘酒竹の園醸造元 清水観音

 そのまま道なりに鹿島新町のバス停のほうに向かって、新天町の交差点を左折、逆川通り交差点を直進、東町の交差点で国道207号に出るが、右斜め前の小さな道に直進。右手に掘割が流れる街道らしい道を通過すれば中川橋の手前で国道207号に出る。

 中川橋を渡って国道207号を進み、大村に向かう国道444号の分かれ道、しめご交差点を通過する。石木津川を越えたら九州INAX工場手前で国道は、やや左カーブしているが、旧道に直進する。いよいよ浜宿に入る。

 浜宿に入ってくると、以前から土塀があって感じの良い宿場町の雰囲気が有ったが、最近は国指定の重要伝統的建造物群保存地区になって、景観整備が進みイベントなんかもあっている様だ。浜中道八本木宿として、案内看板も出ている。

 浜中道八本木宿を抜けて浜土橋を越えて、川向こうの浜庄津町浜金屋町に入る。現地の案内地図の通りに抜けていくと。国道207号に出て、それを突っ切って鮒越の尾根道に向かう。

 ここからの尾根道への登りは、分かれ道に来たら尾根道の呼び名通り稜線に続きそうな道を選べば間違いはない。信隆さんの腰掛石に出会う前に右手下に貯水池が見えたら、安心して歩こう。

腰掛石

 腰掛石から眺望の良い尾根道を5kmも上れば、矢筈の集落に出る。途中矢立や庄屋の茶屋跡など有るが、誰かにガイドでもしてもらわないと判らない。矢筈の集落内右手に防火用水があるのが、ここが矢筈の水置場で今でも清水は枯れることがないという。水置場の先に左手に矢筈天満宮があり、その先で広い分かれ道に出る。本来はここを突っ切るように進むのだが入り口が判らなければ右手、上矢筈に向かい藤棚から左手に下れば同じ道に出る。ちなみに藤棚で休憩するつもりで、私は右手に入った。

水置場 間違いやすい分かれ道

 矢筈峠さえ越えてしまえば、あとは眺望を楽しみながらの下り道。疲れが溜まっているので多少膝が笑うのもご愛嬌。宿場町の面影が残る道もいいが、こんなハイキング気分の道も良い。登りはきついけどね。

矢筈道からの眺望多良宿ももうすぐ

 7割がた下ってきて、本来はもう少し山手の道を行くのだが、川上神社跡も見たかったので川寄りに道を変えた。街道歩きだからといって四角四面に考えることも無い。永い時間の間には街道筋も変わっているし、脇道も出来ていく。

川上神社跡 線路の向こうは円教寺

 なんとか多良宿まで到着。体力自慢のつもりでも、年齢に嘘はつけない。残りのコースはまた今度ということで太良駅に向かう。

多良宿の町並み

 多良から浜宿まで三里七丁、浜から鹿島宿まで一里、鹿島から六角宿まで三里半。小田宿からでは九里程度か?

お疲れ様でした。

【メモ】

 現在の長崎市の矢上から、藤津郡太良町の多良宿までが諫早藩の領地でした。もっとも多くの村を佐賀本藩の蔵入地とされ、深江のように深堀鍋島の飛び地もありましたので全てとは言えませんね。

 この街道を多良街道とも呼びますが、私は街道全体を諫早街道と呼んでいます。小田宿〜多良宿までは多良街道でも異論はありませんけどね。

 そして、諫早街道の脇街道が竹崎街道。ここは殿様道というより一般の旅人や領民が使っていた街道だとも言われています。

04/20/2008修正更新

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