眼鏡橋今昔

 諫早の旧市街の中央に諫早公園があり、この中の池に「眼鏡橋」が掛かっている。

 長崎の眼鏡橋は中島川に掛かっているが、諫早の眼鏡橋はこの公園内に移築されている。実際に目で見てみると長崎の石橋に比べて一回り大きくまた、堅固であることが実感できる。

 この堅固さ故に諫早大水害の折に流木等がこの橋で留まり堰となって、大きな市街地の水害を引き起こすことになってしまったために、現在地に移転したのは皮肉と言える。背景の諫早公園(高城)には、親族のタヌキも元気に生息している。

 1957年7月25日諫早市を中心におこった「諫早大水害」の後にこの地に移ったのは既に述べたが、本来この眼鏡橋が掛かっていたところには、現在給水本管を兼ねた金属製の水道橋が掛かっている、川幅はその後の河川改修で広くなっているが、この写真の水が流れていた部分に、橋は掛かっていた。この橋が堰のようになり左右に濁流が走ったのだが、近くの旧家の土蔵には、背丈を越える高さに、その時の水跡が残っている。

眼鏡橋のある諫早公園の地図

 往時の眼鏡橋の姿。
天保十年(1839年)8月12日に開通したという。
そして、上記の理由により、昭和34年2月22日に解体に着手。その間120年の長きにわたって、本明川に架かり、諫早を見守り続けた。

 この眼鏡橋は、長崎の中島川に架かる石橋を参考にし、教えをうけて、諫早藩の橋奉行自身が川幅の広い本明川に合う様に、また利用の便から、あまり高くならないように、独自に設計したものである。

 また、工事自体も長崎の石工を用いず、諫早領内の棟梁6名が、この難工事にあたった。

しかしながら、当時の諫早藩は財政に困窮し工事費用の半分にも満たない資金しかなかった。

 それでも、一本の橋も無かった本明川に、どうしても橋が欲しいのは、幕府の巡見使を迎える、藩としての面目だけではなく、広く藩内の領民全ての願いであった。
当時の全ての諫早人は、資金不足からあきらめるのではなく、奉行・棟梁は計画を練り直し、僧侶さえも托鉢で、九州各地をまわり、領民は自ら工事に参加した、まさに諫早人が一体となって、この難事業に立ち向かい、その成果として、この眼鏡橋は出来た。 まさに諫早人のシンボルといえる。

 建設架橋当時だけではない、上記の解体移転に関しては、本明川の治水対策は、大きな水害を出した河川ゆえに、一級河川となり、国の直轄事業に成った。この治水計画で、本明川の川幅を20m程広げることになり、眼鏡橋は爆破解体が決まった。昭和33年のことである。
その時の諫早市長であった野村儀平氏は、歴史に明るく郷土愛の強い人であったのであろう。その強固さゆえに水害の被害を拡大した眼鏡橋に対して、解体賛同の市民・議会の圧力に屈することなく、眼鏡橋の移転保存に奔走したという。

 国指定重要文化財(昭和33年指定)である。石橋として始めて国の指定をうけた年に注目したい。
災害復旧で、資金が乏しい諫早市には、自前で移転保存する財源は無かった。
そのため野村氏は、窮余の策として、前例の無い石橋の国指定を取り付け、眼鏡橋を保存する道を開いた。当時の事情を知る人に聞けば、「市長はなんばしよっとか! 眼鏡橋はうっこわせばよか」との声ばかりで、野村氏は孤立しかけていたという。そのなかで野村氏は孤軍奮闘したと言う。感謝。

 経済情勢がどうのと、気弱になっている、現在の諫早人は、先人達の気概と努力を、この橋から思い出して、もう一度立ち上がらなくてはならない。

【復元の実験に使われた眼鏡橋の模型】

 復元工事の指揮にあたられた、山口祐造氏(当時諌早市職員)は前例の無い復元工事の工法確認に1/5スケールの精密なモデルを石で作って実験しながらデータの収集を行った。諌早眼鏡橋を移築後は、実験に使った模型の出来があまりに素晴らしかったため、文化財に準ずる扱いで、ユネスコ村に残されることとなった。

ユネスコ村の諌早眼鏡橋模型
Sight-seeing Japan資料写真から)

資料 諫早市史(昭和30年諫早市発行) 眼鏡橋(1988年諫早JC発行)

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