慶巌寺の名号石

 本明川に面してあり、諫早公園の対岸にあたる慶巌寺の境内にある。

 慶巌寺の山門脇に建つ、屋根を被せた板碑が、この「名号石」です。正面に彫ってある、「南無阿弥陀仏」の彫り方が、特殊な「薬研彫(やけんぼり)}であることと、年代が、貞和7(1351)年であることから、県の文化財に指定されている。

名号石の正面の銘は、下記の通りである。

右意趣者為法界衆生平等利益也

一結。

敬白。

南 無 阿 弥 陀 仏

貞和七年辛卯四月十三日

 また、下のほうに二十数名の名前が刻んであるようだが、判読できない。貞和七年は、観応二年に変わっているのだが、観応の年号を使わなかったのは、後醍醐天皇と対立する、南北朝時代なので、北朝の足利直冬が使わせなかったといわれ、諫早地方が、当時足利勢の勢力下にあったという、歴史的な事実が浮かび上がってくる。

 この、名号石は、元々慶巌寺に有ったのではなく、以前は、大城戸(おおじょうご)と呼ばれた、現在の諫早郵便局のあたりの小川に、渡して、橋がわりに使われていたもの。ところが、この石が、夜になると、怪しい光を出すため、付近の人が畏れて使わなくなり、渡れば祟りがあるとの噂が、流布された。

 そのため、あらためて調べてみると、石板の裏側に、南無阿弥陀仏の銘が読めたので、「墓石だ!!」と、肝を潰したという。こともあろうに、墓石を橋に使って踏みつけていたと思った住民は、祟りを恐れて、供養のために慶巌寺に運んだ。

 慶巌寺で、「これは、名号石だ」とわかり、境内に祭って、磨耗を防ぐために、屋根も設けた。さすがに名号石だけあって、自分で住民に知らせて、慶巌寺に収まったと考えるのは、考えすぎだろうか?

 でも、そう思ったほうが、楽しい。

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