諫早領内の長崎街道を訪ねて

 長崎街道関係をサイトの中で多少扱って居るのに、なぜルートを通した記事が無いのかと聞かれる。長崎街道の本街道を扱ったサイトが多いので今更、屋上屋を重ねるような記載をする必要を感じなかったからだ。しかしながら、なぜ無いのと聞かれるのも癪なので自分なりに記載してみよう。(05/14/2008)

番所橋  長崎街道を紹介するなら私らしく東長崎の番所橋から始めよう。

 この橋は江戸時代には石橋で有ったそうだが、天保の時代から昭和の長崎水害まで、幾度と無く流されて架け替えられた。

 メジャーな長崎街道に石橋が残っていたら結構な観光名所に成っていたろうと思うと残念。

此処からは佐賀藩諫早領となる。

役屋敷  橋を渡って次の辻に出れば左手向うに屋敷が見える。

 ここが役屋敷と言う。今は民間の手に渡っているが、外観だけでも往時を偲べるし、屋敷の入口の水路の石積みも素晴らしいし、小さな石の桁橋も一見の価値がある。

大楠  左手上の矢上小学校にさしかかって、やや行けば、大きな二本の楠が見える。

 矢上八幡神社の大楠として長崎市の天然記念物に指定されている。

 何処に行っても矢を射たと名前が出てくる鎮西八郎為朝だが、この先、600m離れた、八郎橋から、この楠を目掛けて矢を射たという言い伝えが有り、川の名も八郎川という。

 さらに進むと、やはり左手に杜が見える。矢上神社の鎮守の杜だ。矢上宿跡の案内柱もある。

 

 神社に参拝してから、また街道を進む。右手から斜めに近づいてきた国道34号線を斜めに横断して八郎川に出る。

 本来の道は、橋の向うの建物などを斜めに進むのだが、そうは行かないので川岸を進む。

 矢上八幡で鎮西八郎為朝が矢を射たという八郎橋から右折。その後、左の写真の中央の辺りで左折する。

 

 曲がってしまえば気分の良い旧道。途中で山側に道を取るのが本来の街道だが先で通れなくなるので、このまま進む。

 右手に小さな社が見える。役行者神社だ。神仏混淆どころか修験堂の本家本元が祭神の神社。

 

 一気に千里の道でも飛び越える役行者に参拝して、やや行けば、領境石が立っている。

 従是南佐嘉領と有るのは、今まで来た矢上宿が佐賀藩諫早領であることを示している。

 この北側は勿論、公儀天領(幕府直轄地)であった。

 

 この先から舗装された旧道を離れて八郎川沿いに進む。

 途中に八郎川に架かる松向(しょうこう)橋も昔は石像アーチ橋だったが長崎水害後架け替わった。

 川沿いに歩いていると岩の上に小さな地蔵尊が立っている。この辺りはキリシタン殉教地、札元殉教地だ。

 

 そのまま進んで旧道に合流してから橋を渡る。

 橋を渡れば目の前が福瑞寺。その前を通り過ぎて辻に出る。街道は、そのまま直進するのだが、一旦、街道を離れて船石方向に橋を渡る。

 

 右手に分かれ道が有るので、その上の果樹を庭に作っている処が大村庄屋跡だ。

 全くの個人の、お宅だから見せてもらうときは一声掛けたほうが良いだろう。

 

 。左の従是南大村領は諫早領喜々津との境に建てたもの。

 従是東北大村領は古賀村の内の上古賀(大村領)と下古賀(幕府領)の境に建てられたものと言われる。明治になって不要になった領境石を、この地に移したもの。

 再び元の街道に戻って鎧橋まで進む。この橋も長崎水害前までは石像アーチ橋であったのだが残念ながら架け替わった。

 

 橋を渡って左折。自動車整備工場の処で川と別れて、古賀人形で有名な、古賀の藤棚に向かいます。

 八郎川の向うになりますが、古賀は植木の里でもある。その関係かは不明だが、古賀の藤棚周辺は生垣の手入れも良くて気持ちいい。

 

 古賀人形と言えば、京の伏見人形や仙台の堤人形と共に日本の三大土人形と言われているそうだ。

 海外文化を伝えた長崎街道に根付いた人形らしくオランダさんのカラフルな衣服を身につけた土人形は、素朴な中にも華がある。

 三百数十年の歴史を伝える古賀人形の本物は高くて、なかなか手が出ない。

 

 藤棚を過ぎて辻に出たら右折。その先でも分かれ道が有るが道なりに進む。

 写真の長崎多良見ICの高速下を抜ける。

 石垣の突起が判るだろうか?石組みと一体化した階段なんだが、昔は棚田なんかに、よく見られたもの。

 

 高速の本線の下を道なりに潜る。この先、左下の写真の上り口が街道の本線だが、井樋之尾の領境石を見たいので、そのまま通過する。

 

 井樋之尾の観音様に向かう途中に、街道の案内看板が有って左下の井樋之尾茶屋に誘う。

 

 心太(ところてん)が名物であったそうだが、観音の良い水が有ったのだから、さぞや旨かったろう。

 茶屋の先の天川橋の上手には、観音堂へ上る途中に大きな鍵屋が有ったそうで街道を往来する旅人や商人のための宿であったそうだ。

 天川橋を越えて。写真の道を進み。左手の竹林が見える辺りを椎木坂と言い登り切れば井樋之尾観音から来た道と合流する。

 

 合流した辻の先が少し開かれている。この場所が人足詰所跡で、この場所に峠を越える難所に備えて人足が待機していたそうだ。

 今は一畝程の空き地に過ぎない。

 人足を雇うほどの荷物も持ち合わせも無いので自分の足で歩く。

 ややあって左手に大村湾が見えてきて、その先で樹木で視界が悪くなった所が籠立場跡。

 

 昔は眺望が良かったのだろうが、今は皮肉なことに籠立場辺りが視界が悪い。

 右手に清水の祠が見えてきた。今も此処で湧水を汲む人は多い。

 

 籠立場で此処の水を飲めば、さぞかし旨かったろう。

 少し行くと人家がある。此処が峠の茶屋跡。井樋之尾の茶屋も同じだが此処でも庭先を通過する状態だ。

 

 人家を過ぎた処に郡境が有る。彼杵郡喜々津と高来郡久山と書かれてある。

 ここで、このまま舗装路を進んで下った処を左折すれば良いのだが、本来の街道は郡境から真下に行く。

 元の舗装路に合流して脇を見るとボランティアの人達と地元の企業が協力して、この辺りの環境維持をしてくれているようだ。感謝。

 この辺りの、すぐ上に一里塚が有るが案内板も無いので、ちょっと目には判りにくい。

 もう少し下ると川向うを下る道との分かれ道。

 どちらを進んでも同じ処に出るから気にすることは無いが出来れば川向うの道を選ぶほうが街道歩きの気分が味わえる。

下り口 出てきたところ。諫早からは上り口
 出てきた所が旧茶屋跡。傍には六部塔もある。

 

 街道の案内看板を読んでから下る。広い道に出て横断してから高速の下を潜って諫早中核工業団地への交差点を渡る。

 ここで街道は一旦切れるが地下道を通って向こう側に出る。

 左の写真は地下道を出たところ。前方の橋の右手に入る。

 

 前方の山が谷に成っている辺りが赤松坂。坂に掛かる手前を写真左手に向かえば久山の磨崖仏三十三観音に出る。

 

 赤松坂を上りきると正面は建設新聞社。この後、道なりに青葉台、若葉町と抜けていく。

 左手に創成館高・中学校を見て歩くと、前方に高速のガードが見えてくる。

 その先で、諫早中核工業団地の道路との交差点。

 信号で渡ると金属工業団地。

 

 金属工業団地内は本来斜めに突っ切るのだが、そうは行かないので道路に沿って200mほど行き右折して団地の中に入る。

 左手は亜鉛鍍金の有田工業。

 そのまま行くと団地内の辻に出るので左折。

 写真右手の白い工場が秀工舎。

 

 団地の外れまで来て本来の街道になる。抜けたところから、ほぼ直線に進むと右手に二階建てのアパートが見える。

 このアパートの名前が南茶屋荘と言う。

 このアパートの建っている辺りが、まさしく街道沿いの貝津南茶屋跡になる。

 

 すぐ道上が籠立場で、お殿様が休憩する茶屋があった。

 もう少し進んで貝津川の手前が貝津北茶屋跡。

 こちらは、お殿さまではなく一般の旅人も一息入れることが出来た。

 

 この茶屋の名物は焼餅だったそうだ。

 その先まで行くと今度は殿様行列の馬や駕籠丁が一息入れたところ。現在も清水が湧き出している。

 

 今でも見た目は綺麗なんだが、県立総合農林試験場が出来てからは飲用には使っていないそうだ。

 その試験場内を進み東大川の佐用姫橋を渡れば県立農業大学校。

 川沿いの、すぐの処に街道の案内看板が有る。

 

 伊東県之助の墓とサヤンゴゼだ。

 道なりに進んで平山上水道の坂を上ったら、右手に島原街道への追分に出る。

 

 右手に行かずに、そのまま抜けて行く。途中、小船越の公園の先を右に行けば、国道34号線の小船越交差点の手前に出る。

 左下の写真が、その信号の写真だ。

 国道の向うがJR長崎本線。この下を潜るガードが有るので、写真の向うまで進む。

 

 ガードからは直進すれば良いのだが、アパートや店舗の駐車場が有って躊躇してしまう。

 判らなかったら歳神社の鳥居の前まで行こう。

 歳神社は正式には小船越神社と言うそうだが誰もが歳神社と呼ぶ。

 

 神社の脇からも城山を通って街道に出られるのだが本来の街道は鳥居から上がらずに、もう一つ先の辻まで行く。

 

 道なりに歩いて一番低い辺りが呑空谷と呼ばれる。

 

 さらに坂道を登って信号に出るので横断する。

 

 写真の分かれ道を看護センターの方、左手に上って行く。

 看護センターの先に直進すると永昌宿の標柱が立っているが、ここは永昌追分であり宿は、もっと東の方になる。久山の旧茶屋跡と同じで、立てる位置がおかしい。

 

 追分から道なりに入ってみよう。先に行けば看護学校の処に出るから、その先を看護センター前を通過する。

 高いほう高いほうに歩いていけばOK。

 分かれ道の大きな石が有るところが石(いわ)茶屋跡

 

 直進すれば津水道。此処を右手に上っていく。小鳥居諫早病院の前を通り御館山小学校に差し掛かる辺りは見晴らしも良い。

 この先、鎮西学院に掛かるが学院敷地は元ゴルフ場跡。裏手には、その感じが残っている。

 さて、鎮西学院の正門の前まで来た。此処から長崎ウエスレヤン大学、テレジア寮の前を通って坂道を登る。

 

 この先で地元で言うところの北バイパスに出るのだが、旧国道は既に県道になっているので、現在はバイパスが正式な国道34号線になっている。

 破籠井に向かうため、信号の処で横断する。

 

 目の前には右手に長崎街道の諫早エリアのゴール鈴田峠のある風観岳が見えている。

 破籠井に向かう辻に出た。

 

 この辻の先には肥後の士を祀った阿蘇宮があり、その先の破籠井の里に出れば平家伝説の土地

 今日は破籠井の里には行かずに右折して、破籠井バス停に向かう。

 バス停の前まで来た。先の方に小さな道が見えるだろうか。

 

 真っ直ぐ行くと左手に水道局の高部配水池があり、その先の小路を行けば、いよいよ長崎街道のうち大村街道と呼ばれています。大村街道に進むなら、ここから

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