尾和谷城への用水路

 西郷尚善のときというから、文明年間の1470年以降の、事だろうが、本野の入り口、開の辻に、大村藩への守りの拠点として、尾和谷城を築くさいに、用水路を築いた。(12/31/2001)

 本明川が、富川と合流する辺りを、落(おとし)という。この地が、だいたい海抜120mなのだけど、ここから、4k程下流の開の辻の丘陵部は、海抜100m程。高低差20mですから、1/200の勾配で、水を引いたとは、干拓で土木工事に優れた技術をもった、伊佐早とはいえ、すごい技術です。

 ここが、現在の取入口です。堰堤は、勿論後世に改修をされたものですが、500年にわたって、ここから、下流域に、水が供給されました。

 本来の取入口はもっと上流の「落の岩観音

のところに有ります。

 現在の用水路です。コンクリートなどで、改修されていますが、用水路のルートは、一ヶ所、広域農道の建設で、ルート変更されていますが、基本的には、当時のままです。

 用水路に沿って、歩いてみたのですが、途中は暗渠になっている部分もあり、全ては歩けませんでした。

 もちろん尾和谷城(支城)を、作るのに、水が確保できない場所で有ったので、軍事上の必要からの、大土木工事の施工では有ったのでしょうが、その用水路は、流域の水田耕作に恩恵を与えたのは事実でしょう。500年もの間、感謝され利用され続けるなんて、立派な公共工事だと思いませんか?

 下流に建設が進む、諫早湾防災干拓事業。これから始る本明川ダム。西郷尚善公は、どんな目で眺めているのでしょうね。

 右の丘陵地が、開の辻、正面遠方が、大村との境界の鈴田峠、左は旧長崎街道の蕃所がおかれた、風観岳の麓部分。伊佐早側からみれば、戦略上の要地であったことは、今の地形でも、想像ができます。

 建設時から、この用水路の使用は、落の部落と、開の部落で、昼夜二部制で、使用され続けているそうです。

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