我が町諫早の紹介
 

■わが町諫早のデータ

位置はE:130°2′16″・N:32°51′43″(fwd-net長崎・諫早のデータ)

所帯数 33、802戸(諫早市役所発表:11/1/2001)
人口 95、580人(+100人/前月) 男45,489人・女50、091人)

住民数の多い町は?(9/1/2001)

町名 住民数 世帯数
福田町 4788 2255 2533 1777
栄田町 4232 1990 2242 1599
堂崎町 4062 1837 2225 1415
小船越町 5425 2678 2747 1995

工業生産額 2、999憶2、400万(1993年工業統計調査)
農業生産高 3、510ton(1戸あたりの平均耕地面積約1.3ha)

 三方を海に囲まれた田園文化都市・諫早。振り返ってみれば、南は雲仙普賢岳の噴火災害、現在に目を向けると、東の諫早湾での、ギロチンと海苔被害がマスコミを賑わせています。

 古くからは長崎街道の要所であり、現在もJRの大村佐世保線・長崎本線の分岐点であり、島原鉄道の連絡駅でもあります。
また道路でも国道34号線と国道207号線の分岐点。北に目をやると、大村湾に浮かぶ海上空港(長崎空港)への離発着の飛行機がみえます。現代もやはり長崎県の交通の要所。見方を変えると観光長崎県の通過点で、通りすぎる街なのかもしれません。

 過疎県長崎にあって、唯一と言っていいほど、微増ではありますが、この20年の間に人口も2万人ほど増えています。これも交通網の拠点にあることや、中核工業団地などの誘致事業が功を奏したといえるでしょう。こんな諫早市からの情報発信です。

■歴史に見る諫早

 歴史年表に諫早の名が出てくるのは、鎌倉時代の初めに「伊佐早庄・伊佐早村」の名が現れる。それ以前は、「高来郡(たかきのこうり)」新居郷等の郷名が見られるのみです。その後は大まかに言えば伊佐早氏と旧西郷氏の対立の時代が続く。

西郷氏の時代

 戦国時代の初めに、初代西郷尚善が伊佐早地方を統一し高城を築く。四代信尚の時代まで竜造寺・鍋島氏との紛争が続き、後に秀吉の島津征伐に参陣せず改易となり、竜造寺家晴に敗れる。

諫早氏(竜造寺)の時代

 西郷の残党狩りを終え、秀吉より22,502.5石の朱印状を受ける。また文禄の役に鍋島氏に従って出陣、帰陣がかなった時、木々津の港に戻ってこれた喜びを表し「喜々津」と改名した。

 二代直孝の時代に、本家竜造寺家が断絶し、名実ともに佐賀鍋島藩が成立し、これを家晴も見とめた為、七浦以東の一万石を鍋島に召し上げられ、伊佐早は「諫早」となり、竜造寺家も諫早氏と名を改める。(名実ともに佐賀鍋島の属国となる)

 元禄12年に本明川大洪水により溺死者487人を出し、市街を現在の旧諫早村に移す。元文・寛延の時代に、佐賀藩の継嗣問題に関与して1万石没収される。これが遠因になり、世にいう「諫早一揆」が起こった。その後、宝暦10年、10代茂成の時代に若杉春后らの活躍もあって、寛延3年の上がり地は返された。

 天明3年、郷校として、「好古館」を創立。天保12年に、長崎の眼鏡橋を参考に本明川に石橋の眼鏡橋を架橋した。

開国以降の近代

明治4年に佐賀、伊万里県をへて長崎県に編入される。
明治6年に、九大区から三大区に改め区長を置いた。

 廃藩置県時は、旧藩の範囲ごとに、エリア別けされ、現在の北高4町と長崎市内になった、旧矢上村が、諫早エリアであった。区長を置いた、区役所は、矢上村(3区)、諫早村(4区)、湯江村(10区)に置かれた。

明治11年に郡制施行により、高来町は南北に分けられる。

 諫早には、北高来郡の郡役所が置かれた。その場所は、現在の諫早市役所の前庭の南西部で、諫早藩の武器庫を流用した。初代の郡長は、諌早家の家老であった、早田快太氏。

明治13年、長崎県内の各郡に戸長組合の配置がされた。

 この時点で、北高来郡は一町、三村、十一組合になった。戸長組合とは、一村だけで、自治単位とならない、小規模の村を、地区毎に数村まとめて、組合としたものです。

明治15年に高城神社創建
明治22年に市町村制度により、1町17ヶ村となる。
明治31年に長崎本線早岐〜諫早〜浦上開通で諫早駅開業。
明治40年に長崎県で初めて県立農業高校創立。
明治44年に島原鉄道諫早〜愛野間開通で、本諫早駅開業。
上記同年に郡立諫早実科高等女学校創立(大正9年県立諫早高等女学校へ)

大正5年に諫早電灯株式会社設立
大正12年に諫早町・諫早村・北諫早村の三町村合併で諫早町となる。
       県立諫早中学校が分校から独立開校。

昭和4年に諫早局電話始まる。長諫乗合自動車開業する。
昭和7年に諫早無線局開局。
昭和9年に肥前山口〜諫早間の現在の長崎本線が開通。
昭和15年に1町6ヶ村の合併で諫早市の誕生。
昭和16年に県立諫早商業学校開校。
昭和17年に小野島へ航空機搭乗員養成所設立、のちに海軍航空隊になる。
昭和20年、原爆投下により、被爆者を受け入れて市民も治療・救護にあたる。
昭和21年に鎮西学院が長崎より移転開校。
昭和22年、新学制により市内7中学開校、翌23年諫早高校・諫早農校開校。
昭和31年、諫早商業高校が諫早高校から独立開校。
昭和32年、7月25日、諫早大水害起こる、死者・行方不明者539名に上る。

 重軽傷者1476人、住宅家屋の全壊、流失727戸、半壊575戸、一部破損919戸、床上浸水2734戸、床下浸水1075戸、非住家の全壊176戸、半壊320戸、一部破損、351戸。

昭和41年に鎮西短期大学開校(現ウエスレヤン短期大学)
昭和42年に長崎日大高校開校、翌43年県立運動公園完成。
昭和58年に諫早東高校開校
昭和61年に県立西陵高校開校
昭和63年に創成館中学・高校開校

平成に・・・・

■諫早市歌(昭和25年10月制定)

楽譜  作詞 西川好次郎
 作曲 伊藤 英一

 一、まねく雲仙   呼ぶ港
   伸びる十字路  ふみしめて
   若さみなぎる  諫早市
   ああ明けわたる 世の朝(あした)
   力あわせて   進もうよ

 二、みのる野の幸  地のめぐみ
   穂波ゆたかに  渦まいて
   土に脈打つ   諫早市
   ああなつかしの ふるさとを
   われらの汗で  興そうよ

 三、浮ぶおしどり  眼鏡橋
   山と水との   粧(よそお)いに
   光あふるる   諫早市
   ああ人の和の  花と咲く
   明日の栄えを  築こうよ

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