諫早家墓所(天祐寺)

 天祐寺山門前から、左手に回廊を進むと、正面に墓所への入り口がある。(02/03/2002)

 初代竜造寺家晴以降、十八代家興公まで、一つの墓所に祀られてある、諫早家の墓所は、他家と異なり、領主と正室が並んで祭られ、さらに「弥勒四十九院造り」という、極めて高貴な建て方をされてあるのが特徴だが、その中にあって、四代茂真公と、二代直孝公の後室の石室墓だけが、異彩を放っている。

 一説には、「カミナリが嫌いで、墓に落雷をしないように、石室に入る」と、言われるが、直孝公後室の孫にあたる四代茂真公は、祖母の石室墓に興味を覚え、自分もあのような、石室に入ることを望んだのが実際であろう。

 あらためて、墓所に入りなおしてみよう。

 回廊から、正面にみえる、墓所への入り口。瓦が付いた白壁に囲まれて、諫早家の墓所に向かう。

 先に述べた、墓の様式であるが、神社の玉垣のように区画ごとに、ぐるりと、石柱をめぐらした様式の墓が、ずらりと並んでいる様子は

なかなかに、圧巻である。

 他の大名家では、正室といえども、一段下に祭られる妻女が、諫早家では、同列に祀られている。なかには側室まで同列になっているものもあるが、寛容というか、おおらかというか、諫早家の家風が偲ばれる。

 そんななかにあって、直孝公の後室ではあったが、鍋島藩主の姫であった長寿院は、同列埋葬を拒み、独立埋葬を望んだうえに、このような、石室墓を、わざわざ、佐賀から石を運ばせて作らせた。

 この長寿院の時代に、諫早竜造寺家と、鍋島家の上下関係が確定し、姓を「諫早家」と決定したことも、長寿院の心の中にあり。

このような埋葬を望んだのだろう。一旦上下関係が確定してしまえば、三代以降鍋島家から輿入れした、正室も、すべて領主の側に葬られている。

 長寿院だけは、権力をほしいままにし、領主の傍らを拒み、初代家晴公や自らの主人の墓を見下ろす台地の突端に建てさせたのも、鍋島対諫早の将来を暗示していたかのように感じる。

 墓所に咲く、山桜もなかなか良い

fwd-net長崎・諫早

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