日吉神社(飯香浦町)

 網場〜野母崎に抜ける、県道34号線の飯香浦・日吉にある。(01/30/2002)

 農協の日吉地区の倉庫のような、建物の脇に、一の鳥居がある、扁額には、日吉神社と記され、明治28年建立とある。

 二の鳥居手前までの間は、よく加工された石段で、上りやすい。参道の途中を県道が、横切ったあたりの上に、二の鳥居がある。

 二の鳥居の扁額には、日吉大権現とあり、明治以前の建立だとうかがえる。

 この鳥居から、境内までは、丸くなった石段で、急なこともあって、昇り辛い。

 拝殿は、落ち着いた造りで、境内も掃き清められていて、すがすがしい。急な石段を上がってきたので、息を整えていると、裏側には、車で上がれることが判って、少しがっかり。
 参拝を済ませて、拝殿の中を拝見していると、由緒書きが掲げられていた。由緒書きがある、お社は多いが、読めないほど古くなって、掠れているものが多いが、これは見易い。

<由緒書から>

由緒書

長崎県長崎市飯香浦町字東トヨメキ三五四六番鎮座

一、神社名 日吉神社

一、祭神 大山咋命(二十一座 滋賀県大津市坂本鎮座、日吉神社と同体也、官幣大社)

但し、勧請、寛永三寅年

一、社地 面積 壱百七拾八坪参合六勺 但し無税

沿革

当社は、創建年代詳ならず、足利氏の末に及び国内乱れ、社運も日に衰徴し、切支丹宗徒のため社殿等も消失せられ、殆んど廃滅の姿に帰したりしが、豊臣秀吉の切支丹宗を禁じ、徳川家康も、その政策を継ぐに及び、島原藩主松倉豊後守重政は、神仏の再興を計り、寛永三年(一六二六)三月十八日、裳着神社及び、村内六部落の神社を再興し、境内社地は除地の特権を与えられる此の時、肥後菊池氏の遠孫、詫森右近の将監清永に命じ、裳着神社及び、村内六処神社の神主職を授けられ、爾来代々其の職を兼帯せり、維新前に山王大権現と称し、裳着神社の境外末社たりしが、明治維新に神仏混淆の禁令と同時に、神社で仏号を公称するものも、社号に改正すべき由の、布達があったので、明治元年(一八六八)四月、日吉神社と改め、同時に無格社に列せらる。

享保四年(一七一九)肥前国高来郡裳着郷田上宮居

祟玄親王 大江宏隆謹誌

平成三年三月十日 裳着神社縁起書写す

裳着神社宮司
日吉神社宮司 藤田 稔

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