松島を訪ねて

 古くは捕鯨で栄え、やがて炭鉱で栄えた松島。今は石炭専焼の発電所、松島火力発電所の島。実際に行ってみると発電所の島というより歴史と自然豊かな島であった。(12/09/2008)

フェリーで渡る
(両頭のフェリー)

 西海市の大瀬戸町樫浦からフェリーに乗り込む。ジムニーの運賃は片道1300円、20分弱で松島の内浦に到着。内浦には港湾の係員が居ないので甲板員が自分で接岸の作業をする。

 無人になってしまったターミナルで飲み物を買って、港から島内を一周する県道に出る。今日は左折して時計回りに島を巡ってみよう。

無人のターミナル 共鳴の谷

 逆光で写りが悪いが、この大岩に向かって手を叩くと反響するとの事で、ここを「共鳴の谷」と「島おこし会」の人たちが命名した。やってみると共鳴するポイントを選ぶのが難しいが確かに鳴る。

 市営の渡海船が着く松島港の離島住民センターでトイレを借りようと中に入る。待合室の中には松和会文庫と書かれた書架がある。奈留島にも有ったが、だれもが大切に使っている様子が見える。離島ならでわだ。

離島住民センター 松和会文庫

 松島港に来たら毎回、なんとなく見てしまうのが港の中の駱駝(らくだ)岩。何度見ても自然に出来たとは思えないほど駱駝に見える。

らくだ岩

 島内を走るバスがやってきた。樫浦から渡海船で戻った人達が乗っていく。私は、生まれ故郷の小倉から勧進された八坂・八幡神社である松島神社に参拝してから出発。

らくだ岩

 松島港を出て、やや走ると右手に民宿清和荘が見えてきた。私の知る限り、発電所関係以外の一般が泊まれる島内唯一の宿泊施設である。今日は誰も居ないようだ。

 もう少し行くと右手に正定院の裏手の墓所に出る。

民宿清和荘

 西彼半島は大村藩の領地であったが、この正定院は大村の長安寺の末寺で長安寺の開祖、九誉上人が隠居したところで当初、正定庵として寛永10(1633)年に開かれたた寺院。上人の没後、一旦大村に移されたが、後の明和9(1772)年、外海地方の教化のため再度、西泊に開かれた。その後、天保14(1842)年、捕鯨で有名な深沢家の寄進により、この地に堂宇を移したもの。

 その場所は深沢家の累代の墓所の一角であり、寺の下の浜辺には深沢家の屋敷があった。現在の屋敷跡は、アコウノキの古木が往時を偲ばせるだけである。

正定院 深沢家屋敷跡

 鯨で栄えた時代の名残を思いながら、県道から一旦離れて、遠見岳に向かってみよう。島おこし会が設置したのか景色の良い所にはベンチが設けられていて嬉しい。また、古くからの道らしく分かれ道には道標のように公孫樹の古木が迎えてくれる。

休憩できるように 道標のように公孫樹が

 この遠見岳には、その名の通り遠見番所が設けられた時代もあったように、五島灘を一望に出来る場所である。烽火台でもあった山頂付近には、他の山と同じように中継局などが設けれている。

 また、公園整備もされているので、ピクニックにも良い場所だ。

 山頂から下ってきて外平の本照寺に出たら、「報恩講」という幟が出ていた。正面に回ってみれば浄土真宗大谷派の寺だった。(真宗大谷派長崎教区HP)浄土真宗にとっては大切な行事に当たる。

 県道に出て見るとカンコロが干してある。沖に見えているのは隣の島、池島だ。そういえば池島には、ゆっくりと行った事がない。

 大田のバスの終点を過ぎると炭鉱の遺構が見れる。捕鯨が途絶えた後の池島で大正から昭和の始めまで全盛期を迎えた、島の基幹産業であった。

 今ここに残るのは大正期にドイツ人技師の指導で作った、鉱夫達を降ろす巻き上げ機場の赤レンガの壁と変電所の跡。そして電力を送る四角い電柱が残るだけ。

 そして、その前に建つ慰霊碑の宝筐印塔が悲しい。

 供養等を過ぎて、太陽と海の道と名づけられた気持ちの良い海岸通を行くと、日本一小さな公園(自称かな?)に辿り着く。

 自然木で出来たベンチに座って海を眺める。公園は小さいが目の前に広がる五島灘は大きい。大きいといえば、この先で県道から分かれて森の遊歩道を抜けると丸山鼻の先の千畳敷に出る。

 改めて、松島の自然の大きさに気が付いて、ここでも暫く時を過ごした。

 豊かな自然と共に現在の松島の象徴、Jパワー(電源開発)の松島火力発電所が見えてくる。石炭専焼の火力発電所は国内炭の需要確保で進められたが、相次ぐ閉山に遭い、現在は中国、豪州から輸入炭を積んだタンカーが接岸している。

 内浦から山ノ神に入り、アコウノキの案内看板から上っていくと社宅団地を過ぎて奥まったところにアコウノキの巨木が待っている。

松山のアコウノキ

 アコウノキの巨木は沢山見たが、この松山のアコウノキは大きい。昔、松ばかり茂っていた所に、アコウノキが「おいも住まわせてくれ」と松達に頼んで、崖の上ならと言われて住み着いたというアコウノキ。

 これで、松島を歴史の盛衰と共に巡ったことになる。島の周囲16km、住民800人の小さな島は渡海船で渡って離島住民センター前の理容タサキさんで自転車を借りて廻るか、一日ゆっくりと歩くのが良いだろう。

日本の島へ行こう長崎の島松島

西海市大瀬戸町瀬戸樫浦郷162−31
江崎海陸運送
0959−22−0099

西海市大瀬戸町松島内郷135 
民宿 清和荘
0959−22−2100

西海市大瀬戸町松島外郷1646
浄土真宗大谷派 本照寺
0959−22−0268

西海市大瀬戸町松島内郷2573−3
電源開発松島火力発電所
0959−22−2111

深沢家・深沢与五郎幸可

 松島で、鯨組を始めた深沢与五郎幸可は、元禄7(1694)年に夏井の浦(西泊)に居宅を構え、翌年の元禄8年に平島から移住して、代々捕鯨業を家業とした。

 当時、松島近海は鯨が多く、西泊と福島の間の狭い海峡を通るほどで、「鯨一頭獲れれば七浦うるおう」と「いわれ、与五郎は、たちまちの間に巨万の富を築いたといわれる。

 その後、家業に盛衰があり、寛政4(1792)年深沢与五郎幸曹の代になって、鯨組も解散し、文政2(1819)年の中橋才右衛門の代には、西泊をはなれて大村に転居したが、その屋敷跡には、一族の中橋荘次郎が居住していたといわれる。

遠見岳 史跡狼煙場跡・遠見番所

 海抜218mの松島の一番高い、この山を遠見岳という。この山上に狼煙場が設けられたのは文化6(1809)年で、大村藩主純昌の代であった。

 当時、長崎での異変の際、神浦(長崎市外海町)大野岳の火を受継ぎ、狼煙を上げて村中に異変を知らせ、更にこの火が平比良・七釜・大田和へと伝えられたといわれる。

 なお、この地には、安政5(1858)年、時の大村藩主純熈(すみひろ)公が海防のため、外海地方に六ヶ所の砲台と十四ヵ所の遠見番所を設けた折、その遠見番所の一つが設置されていた。

 この遠見番所は、外洋の展望のきく場所に設けられ、外国船の来航や、漂着、密貿易等を監視させたものという。

大瀬戸町教育委員会案内看板から

松島炭鉱水没事故犠牲者慰霊塔

 昭和9年11月25日。この地下の坑道に海水が侵入し従業員54人が亡くなりました。当時、左上の丘の上に弔魂碑が建てられましたが、年月の経過と共に何時しか人々に忘れ去られ雑草の生い茂る荒地になってしまいました。

 島原の中川雲女香先生は、この惨状に強く心を痛め、昭和59年11月25日、私財を投じて荒地を整地し亡くなられた方々の名前を宝筐印塔を建立されました。

 かつての島の繁栄を支えた犠牲者が今尚、冷たい海底に眠ることに思いを致し遺族の方々をはじめ島の内外の人達が、お参りをし霊を慰められるよう願っています。

現地に建つ解説板から

松島火力発電所

 国内初の100万kw石炭専焼火力発電所として建設された。甲子園球場28個分の敷地で年間230万トンの石炭を使い24時間運伝。

 社員は約100人、関連企業を含めると450人程の人が働いている。事前に連絡をすれば見学も受け入れてくれる。

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