奈留島を17年ぶりに訪ねる

 3年半の五島勤務時代に何度も訪ねた奈留島。最後に行ってから17年になる。コンサルから奈留島の調査依頼が来た、二つ返事で承知したのは言うまでもない。さぁ奈留島を訪ねてみよう。(12/4-5/2008)

ハマジンチョウ
狂い咲きのハマジンチョウが待っていてくれた

 日本最古の歴史書たる古事記に知詞の島と記される五島列島。その中央に位置する奈留島は古代、鳴の一字で鳴嶋と称されていたが、和銅六(713)年に元明天皇の地名を好字二字に統一するよにとの詔で、奈留としたが近世まで鳴嶋とも呼ばれて続けていたという。

 その奈留島に行くのに、午前中に着く必要があったので07:40長崎港発の九州商船のジェットホイル(7,070円)に乗り、福江港で五島旅客船のニューたいよう(770円)に乗り継ぎ、10:15奈留港到着の便を選んだ。

ジェットホイル ニューたいよう

 奈留港の新しいターミナルに到着。昔のターミナルに比べて随分と中心街から離れてしまったので不便になった。フェリー太古等の大型化で抜港されないための対策かな?

 ターミナルに入って、長崎港で停めた駐車券のチェックをしたら、その脇に音声告知端末が置かれてある。私も関わった五島市のネットワーク整備の関係で設置されたものだが、早く言えば有線放送の現代版みたいなものだが、誰か利用者は居るのだろうか?

駐車券チェッカーと音声告知端末

 そうこうしてたら奈留レンタカーの方を発見。車を受け取る。ネットで検索しても奈留島のレンタカーはヒットしないので、フッターに連絡先をメモしておこう。(料金は大手のレンタカーより割高。26時間で11,046円だった)オドメーターは61,904km。

台場 レンタカー

 さっそく奈留町行政センターで挨拶をして、取引先のコンサルの部長をターミナルに送って自由の身になる。奈留島といえば昔は「奈留島名所は泊の台場に飯盛の山、春は千畳敷、夏は宮の浜、秋は小浦の月、城も無いのに城の岳〜♪」と謳われている。ターミナルの目の前は台場、振り返れば飯盛山が見れる。春のシーズンではないが千畳敷に行ってみよう。

飯盛山 千畳敷

 暫く千畳敷を眺めて下る。舅ヶ島海水浴場に出る。個人的には防波堤に囲まれた現代なら「夏は宮の浜」と謳われた宮の浜海水浴場より、同じ海水浴場なら、この海水浴場のほうが気分がいい。

舅ヶ浜海水浴場 千畳敷は隣

 「秋の小浦の月」は、もうすぐ雨が降り出す今回の日程では望むべくも無いので「城も無いのに城の岳」に行ってみよう。山頂の中継所は島内の各所から見えるがアンテナは何時でも良い場所に立っている。展望台からは久賀・福江は勿論、椛島・若松・中通島まで望むことが出来る。奈留(浦)港の天然の防波堤に成っている前島・元末津島も良く見える。ここのトンボロは今回、時間の関係で見に行けないのが残念だが、展望台に設置されている無料の望遠鏡で見ることが出来たから、まぁ我慢しよう。

駐車場から山頂を 前島から

 俗謡に謳われた名所巡りをしていたら、五島勤務時代の記憶が戻ってきた。当時、水飢饉といっていい程の水不足が奈留島を襲い、乳飲み子を抱えた知人が、福江島に非難してきた事を思い出す。

 今、奈留島には砂防や沈砂池を含めて6箇所の水源施設があって、総貯水容量268,000立米の能力がある。数は多いようだが最大の大串壕の青木浦ダムで65,300立米と小さい。近くの樫木山ダム(砂防)を見てみよう。

樫木山ダム 樫木山浄水場

 水飢饉があった当時より水源が増え、人口は減少したとはいえ、集落排水(簡易な下水道)の普及などで水の需要は増えるばかり。水を蓄える山が浅い島の現実が、こんなところにも見える。水といえば旧奈留小学校の正門の前から城岳向かってを殿口と言い、奈留氏の屋敷へ向かう入口である。ここから道なりに50mほど行った所に、井戸があり殿井(とのかわ)と呼ばれている。1m程下には水がある浅い井戸だが水は清浄で枯れる事も無いという。

旧奈留小学校の正門 殿井(とのかわ)

 もう、昼時を随分すぎた。旧奈留小学校前の高台に鎮座する天満神社に参拝してから腹ごしらえだ。奈留島の中心部で旅行者が気楽に食事が摂れるのは「みかん屋食堂」。

 駐車場も有るしメニューも多い。食事の店は他にも沢山有るのだが、開いてるのか準備中なのか判らない店や駐車が出来ない店が多くて入りにくい。ここなら安心していける。

みかん屋食堂 店内

 もっとも大衆食堂だから、豪華なメニューを期待してはいけない。地元の人が出前を頼んだり普通に昼食を摂りに来る店だ。今日は夕食までの時間が近いこともあって、皿うどんを頼んだ。620円。

皿うどん

Mapion

 ごちそうさま。空腹が満たされたところで夏井に向かう。夏井という地名の由来になった井戸を見るためだ。途中、白這でダムの様子を見てから、さらに走り、夏井の漁港を通り過ぎた辺りで到着。夏井の井戸は、そばに鎮座する水神様の風化具合でも判るように、作られた時代は古く相ノ浦湾に停泊した遣唐使船や交易船が飲み水を汲んだといわれる井戸。

夏井の井戸 天満神社

 閉鎖された保育所の裏手にある天満神社に参拝してから海岸通りを北上する。車の後輪を濡れた落ち葉にズルズル滑らせながら上がって来たのは熊高浄水場。奈留島で昭和45年になって初めて作られたダム。そして島内で唯一の貯水専用ダム。

 他のダムも砂防ダムと言いながら有り様は貯水ダムと変わりがないのだが、砂防ダムであれば県費で作れる可能性が大きいから砂防で予算を取ったのだろう。総貯水量42,800立方と、ここも小さな水甕。

熊高浄水場 熊高ダム

 一旦、夏井に戻ってから延命寺トンネルを抜けて江上に出る。昭和50年には創立100周年を迎えた、歴史有る江上小学校も平成10年に廃校となり、廃校時の生徒数は11名で有ったと言う。

旧江上小学校 廃校記念碑

 旧江上小学校の校庭から、世界遺産に登録申請された長崎の教会群のひとつ江上教会が見える。大正7年3月に鉄川与助氏の監修によって再建された天主堂は木造50坪の小さな白亜の教会。

江上教会

 記録によれば、大正6年に再建着手した当時の信者は190人で世帯数は40〜50戸であったという。建設資金は2万円、信者の労働奉仕や割り当て金の重さに耐えかねて移って行った信者も有ったと言う。

 まるで童話の中の教会のようなロマネスク様式の外観も、内部の見事なドームも信者の汗が作り出したもの。ただ、教会建設時にはキビナゴの大漁が続き信者達は神の御加護と喜び合ったとの記録も有る様だ。

 丁度、タクシーで観光客が来ていて、運転手さんの説明によれば現在も月に一度は教区の神父が訪れて10人ほどの信者が日曜ミサを行っているそうだ。

 大串の漁港を過ぎて日枝神社に参拝して皺の浦に向かう。丁度、汐が満ちているのでビーチロックは一部だけしか見れなかった。池塚に回って見る。ハマジンチョウの開花時期には早いので期待していなかったが観音堂の周辺で少しだけ見ることが出来た。(トップの写真)

ビーチロック 池塚の観音堂

 ラグーンを眺めてから、池塚観音堂の裏手の塩塚に参拝。平家の残党の墓とも大串に「えきり」が流行った時に隔離された人の埋葬地とも言われる。ただ祈祷師の話として、池塚には平家の残党の三姉妹(とよ姫・つる姫・さよ姫)が祀られていて、信仰すれば字(学問)が分かるようになるとされ信仰を集めたそうだ。

ラグーン 池塚

 空模様も怪しくなって、島の医者になっての犬先生が命名した野首のゴジラが出る風景は別の機会に紹介するとして南下、奈留高校に向かう。

 奈留高校が分校時代にラジオ番組で「校歌が無いので作って」との生徒の投稿に、当時の荒井由美が奈留島をイメージして作ったという「瞳を閉じて」の歌碑がある。分校が本校に成ったときに残念ながら正式な校歌には採用されなかったが、いまでも奈留高校の歌で有ることは間違いない。

奈留高校 ユーミンの歌碑

 小・中・高一貫教育に挑戦するため隣には奈留小中学校がある。その裏側を回って鈴の浦に向かう。雨が本降りになってきた。まだ3時過ぎだというのに薄暗くなってきた。

 烏帽子岩に着いた時には雨風で浜に降りれず、防波堤の端から眺めるのみ。仕方が無い。今日はこれで宿に向かおう。

奈留小中学校 鈴の浦の烏帽子岩

 奈留には旅館奥井や福良旅館など、なかなか良い宿も有るのだが、今回予約したのは昔、お世話になった民宿豊陽さん。なにぶん17年ぶりなので看板が無くなった今、宿の前を気づかずに通過してしまったほど。大丈夫かな?と一瞬不安になる。

民宿豊陽の外観 部屋の様子

 声を掛けて、出てこられたご主人も随分・・・・。それでも顔を見て一安心。お世話になることにした。事前に今から来ると言ってあったので、お風呂も食事も準備が出来ていた。余分な世話を掛けるのも気が引けるので早速、入浴して、そのまま食事を頂く。豪華〃〃。満腹だ。

民宿豊陽の風呂 夕食

 勿論、トイレも洗面所も共同だが、今夜は私一人が宿泊客。貸切みたいなものだ。ターミナルの奈留高校の文庫から借りてきた「熱気球イカロス5号」を読みながら一杯やっていると停電。塩害の停電かなと思っていたら復旧、また停電。こんな時は寝るに限る。おやすみなさい。

民宿豊陽の洗面所 朝食

Mapion

 朝食を頂いて、宿泊料6,500円(安い!)を支払って二日目。「時間が有ったら寄りなさい」の、女将さんに応えて、まずは浦向の奈留神社に参拝。

奈留神社

 昨日お世話になった「みかん屋食堂」を過ぎて、奈留(相ノ浦)教会に向かう。奈留島の中心的な教会だ。正面からの写真は広角レンズが無かった為に諦めた。

奈留教会 奈留島唯一のルルド

 教会から草摘峠を越えて船廻に向かう。船廻の宮の森総合公園に立ち寄る。すぐ下には船廻八幡神社の樹叢や宮ノ前海水浴場とアウトドアには事欠かない場所だが、通年営業とは言っても誰の姿も見えない。冬場は寂しい限り。八幡神社に参拝して樹叢の中に入り、ナタオレノキを見てきただけ。

宮の森総合公園 船廻八幡宮樹叢のナタオレノキの大樹

 この船廻には是非見たい場所が有る。地蔵堂の裏手に祀られる二人地蔵だ。4体並んだ二人地蔵の由緒は誰も知らない。なんの目的で刻まれ奉納されたかも分かっていないが、子供の味方である地蔵尊に守られたように祀られてある二人地蔵は、子供を思う親の気持ちが伝わってきそうだ。

二人地蔵 文政3年の二人地蔵

 そういえば旧船廻小学校に笠松宏有記念館が開かれたと、この夏に話題になっていた。五島市は奈留島を芸術の拠点にすえて、モンパルナス構想なるものを立ち上げているそうな。ポスターを見ただけで退散。シーズ外れの漂着物だらけの海水浴場で休憩。

宮ノ前海水浴場

 出航までには、もうすこし時間が有る。池塚のラグーンは見たが汐池に行ってない。片山から峠を越えて走る。さっきの船廻に「はた織り姫」が住んでいて、普段は汐池港に入る上方の船頭が、たまたま船廻に船を着け、はた織姫と恋に落ちた。入港するたびに逢瀬を重ねたが、あるときから急に船頭が来なくなった。後に船頭が難破して死んだと分かり、はた織姫は、この汐池に沈んだという。姫は今も汐池神社に祀られている。

汐池神社から 雨が酷くなってきた

 もう一ヶ所、水の浦教会に行ってみよう。アコウの巨木も海岸に見れるという。なんでも水ノ浦の信者達は葛島教会や江上教会に船で渡って通っていたそうだが、天理教の教会を譲り受けて使っていたが、30年ほどでシロアリの被害のため、昭和32年12月26日、今の民家作りの教会が完成した。50段の階段を上った教会では、当時、ほら貝を吹いてミサを知らせたという。

水ノ浦教会 アコウノ巨木

 まだまだ見たい所はあるが、そろそろレンタカーにガソリンを入れねばと浦のスタンドに入ったら10L程入った。リッター約180円。高いなぁ。

 昼に成るとココマートふじやの弁当が売切れてしまう。船中での昼食用に早めに買っておく。ココマートは高齢化が進む奈留島にあって、電話注文の配達にも対応するし、買い物中の子守やミルクの湯まで提供してくれる。勿論、授乳コーナーまで有るという頑張っている店舗。

 いま買った弁当も「ココが良い」と知人の奥さんのアドバイス。

ココマート 昼の弁当

 ターミナルに到着、奈留レンタカーに連絡を入れて清算。オドメーターは62,051kmだったから、147km走った事になる。よく走ったものだ。

 昨日から借りていた本を奈留高校の文庫に返却。この文庫の本はフェリーに載るときも借りていって良いそうだ。いつに成るかは分からないが、次に来るときは幾らか本を持ってこよう。

 表にはバスが待っている。島の交通はダイヤだけを見れば本数は少ないし不便なようだが、船便とのリンクが出来ているので案外と便利が良いものだ。コンサルの用件を抱えてなければバスにも乗ってみたかった。

奈留島バス 奈留高校文庫

 12時になって九州商船の窓口が開いた。この最近プリントアウトした船のチケットばかりだったが、フェリーの硬券が、まだ有るんだ。

 奈留高校の二年生が12月1日から修学旅行で関西に行っていたとかで、この船で帰島した。疲れた顔はしていても皆、ニコニコと楽しそうだ。

フェリーの硬券 海に立つ虹

 フェリーが寄港地の奈良尾港を出たころ雨が上がってきた。デッキに出てみると海から虹が掛かっている。海に立つ虹も久しぶりに見た。滞在時間26時間の奈留島の旅は終わった。今度は暖かくなってから来たいなぁ。

五島市奈留町浦1817番地
奈留レンタカー(城田運送)
0959−64−2148

五島市奈留町浦409−1
みかん屋食堂
0959−64−2079

五島市奈留町浦郷1854−3
民宿 豊陽
0959−64−2268

五島市奈留町船廻郷897
宮の森総合公園
0959−64−4898

五島市奈留町浦1838
ココマートふじや
0959−64−2329

■台場

 泊と赤碕の間に、浦港に突き出るようにして小高い丘が細長く伸びている。この高台は「台場」と呼ばれ、江戸時代後期、日本近海に出没する異国船対策として海岸防備を厳しくした折、五島藩の命により大筒(大砲)等を備えたところである。

 現在、頂部には八大龍王等が祀られて、野鳥の憩いの場所になっている。

■ハマジンチョウ(浜沈丁) 

 ハマジンチョウ科ハマジンチョウ属、暖帯南部から亜熱帯の海岸に見られる常緑低木。高さ2m程度。冬〜早春に開花。葉は枝先に集まって互生し、長さ8cm程度の長楕円形。質は厚くて柔らかく、透明な腺点がある。果実はコルク質で海水に浮くので、海流にのって散布する。名前は海辺に生え、ジンチョウゲに似ていることに由来する。

 池塚のハマジンチョウは、長崎県指定天然記念物に成っている。平成元年9月29日指定。

■城岳

 この城岳(標高189.1m)は、奈留の中心街の裏手にあり山頂からの見晴らしがよいので、昔から奈留の人々にとって馴染みの深い山である。

 中世に土地の豪族である奈留氏が、この山の山頂に城を構えたことから城岳の名前が着いたのであるが。この城は中世特有の根小屋式山城といい山麓に館を中心とした集落を構え、平時は此処に居住し、いざ戦闘になったら山城に籠もって戦う方式の城であったと思われる。

 したがって聳え立つ城ではく質素な建物が在ったものと思われる。山頂には現在も石垣で囲まれた跡があるという。

■トンボロ

 砂州・陸けい砂州は、海食によって生じた砂礫が波や沿岸流に運ばれて島影に堆積し砂州となった。ここのトンボロは北西風による波の影響が大きく北西側の海浜勾配は緩やか、東南側は急傾斜している。

 砂州は前島側から発達し、3〜5段の小段丘を形成し成長している。しかし満潮時に元末津島側が沈下することも有る。

■殿口と殿井(とのかわ)

 城岳の麓に館を築いていた(郷土誌には、中世紀頃城岳を居城としていたと記載されている)土地の豪族である奈留氏が村へ出入りする所であったことから殿口の名がついたと言う。また、その道脇には、殿様専用の井戸があり殿井(とのかわ)と呼ばれ現在でも使用している。

 土地の人からは殿様と呼ばれた奈留氏は、いつ頃、何処から来て島に住み着いたかは不明である。奈留氏の名前が文献に登場するのは鎌倉中期で、この頃から室町期にかけては奈留島を一手に支配しながら貿易にも手を出し、かなりの活躍をしていたようである。

 時代から推察して、倭寇として暴れ廻り朝鮮半島や中国沿岸での略奪や海賊行為も行われていただろう。この時代、奈留島の先々には人は住んでなく、泊・浦・船廻・東風泊・夏井・大串などの浦々に集落を形成していた。

■地名のもとになった夏井の井戸

 夏井の天満宮の近くに古い井戸が有る。この井戸は、1,000年もの昔から名の知れた由緒有る井戸で、夏井という地名は、この井戸に由来するという。

 道路が出来る前は、海岸から柄杓で汲み取れるような井戸であった。この水は海岸に有るにも関わらず塩分を含まず涸れる事も無かった。しかも、夏でも腐りにくい良い水として知られ、相ノ浦湾に入港した遣唐使船や交易船は船内の飲料水として、ここの水を酌み込んで行ったと言う。

 夏井は美人が多いところというが、この水のよさも一因かも知れない。

■ラグーン

 湾が砂州(さす)によって外海から隔てられ湖沼化した地形。ただし、完全に外海から隔てられたものはほとんどなく、ごく狭い海峡により外海とつながっているものが多い。したがって、ラグーンは塩湖である。奈留島内では池塚と汐池が有名。

■奈留教会

 奈留教会が出来るまでは、主任司祭は葛島教会を拠点にして江上教会、若松町の有福教会、原塚教会、それに宿輪、水ノ浦、汐池地区では民家に作られた祭壇を巡回してミサを行っていた。

 大正の終わりごろ、宿輪地区の信者達が宿輪に教会を建設したいと神父に相談した。神父は相ノ浦地区に建設するよう強く説得し現在地に建設されることになった。

 神父が、信者が殆んど居ない相ノ浦地区に建設を望んだのは、この地への布教が目的であったと思われる。

 青方の大工が建設にあたり、大正15年6月8日、木造のバラック建て普通民家作りの教会が建設された。風に弱いことから外から何箇所も太い丸太で支えれていたという。

 宿輪の20戸程の信者が寄進した、その教会は昭和34年の台風14号で危険になった為、解体され昭和36年4月に資金難の中で再建に着手した。労働奉仕もあり、その年の12月14日に80坪のコンクリート造の教会が完成した。建設費用は570万円であった。

 相ノ浦教会から奈留教会になったのは昭和32年のこと。ルルドは平成元年に完成している。

由緒などは平成16年7月31日発行の奈留町郷土誌を参考にさせて貰った。

12/08/2008更新

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