有喜の普賢岳烽火台跡(諫早市)

 島原街道の諫早道を歩いていたときに、古代の烽火台跡が有喜の普賢岳に残っていると聞いていた。朝からの菜園の作業を済ませて一休みしてから午後になって登ってみた。(06/01/2008)

 前述の街道歩きのときに、本街道からは道が無いと聞いていたので、位置を確かめて森山側から得意の薮コキで登って来た。山頂までの途中、林の中に入って周りを見ると、自然に集まったとは思えない人工的な大岩が並んでいる処が何箇所も有る。過去の烽火台を訪ねた経験から、山頂では無いだろうと先入観を持っていたので、どれもが烽火台跡に見えてしまう。

 そうこう云っている間に開けた所に出てきた。安政4年に建立された普賢菩薩の鳥居が迎えてくれた。開けているはずだ駐車場まで有る。ここから階段を上がると普賢菩薩が祀られている。普賢岳と云う位だから祀られていても不思議は無いのだが、はたして烽火台は何処に?

 ここでネタ本を取り出す。宇木会の人達が出版した「ふるさと再発見、有喜ロマン」を取り出す。最初から読んどけば良かったのだが中途半端に予備知識が有ったのが邪魔をしたようだ。普賢菩薩の奥、山頂に有った。

 烽火台跡から橘湾を望むと、残念ながら初夏の薄曇で野母崎半島は見えない。

 コンクリートの簡易舗装が気になって、国道に下りてみたら、宇木会が立てた案内の道標まで有った。ここから登ってNTTの有喜中継局から登れるようだ。もっともチェーンが掛かっているので徒歩でのお話。

 高来町の小峰烽火山の頁でも触れたが、白村江で新羅・唐連合軍に敗退した我が国は、向うから攻めてくることを怖れて、西国に防人を置き城を築き、同時に烽火台を設け昼は煙で夜は火炎で敵の来襲を伝達する方法をとった。

 伝達経路は野母崎の権現山を発して此処、有喜の普賢岳を経て高来町の小峰烽火山、多良の風配というように次々に伝達され大宰府に届くしくみであったという。

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