小峰烽火台跡(諫早市高来町)

 いこいの村長崎の手前から多良岳方向に上がっていくと、いこいの村の施設(公園)の上に烽火台のレプリカがある。本物の烽火台跡は、もっと山の中。(05/31/2008)

 教育委員会の案内看板には、この烽火台は烽火山中に有るものを復元したものです。「烽(ともしび)台」は現在、烽火山という地名として残っている。

 元明天皇が和銅6年(713)諸国の造(みやつこ)に命じて庶民の生活状況の報告を求めたと肥前風土記にあるが、この烽火山は、その年代の史跡である。

 天智天皇は唐・新羅軍の来襲に備え、633年(百済救済に向かった倭軍が白村江で新羅・唐連合軍に敗退した年:管理人注)西国に防人を置き城を築かれた。同時に烽火台を設け昼は煙で夜は火炎で敵の来襲を伝達する方法もとられたのである。

烽火台の内部烽火台から雲仙を望む。曇ってますけど。

 伝達経路は西彼(合併後長崎市:管理人注)野母崎の権現山、諫早有喜の普賢岳、本町の小峰烽火山、多良の風配というように次々に伝達され大宰府に届くしくみであった。

 江戸時代になり黒船の来襲を告げるため寛永十五年(1638)新たに長崎に狼煙台が設けられたが。ここからの烽(ともしび)も同じ経路で幕府に伝達する役割を持っていた。小峰烽火山はかかる役目を果たした史跡である。と記されてあった。

道標が有った

 レプリカから一旦、道を戻って多良岳に向う途中に烽火台跡を示した道標が立っている。ここから踏み分け道を上がると、すぐに新たな道標が立っている。現在、伐採中なので道標の方向を良く確かめて踏み分け道を通らないと道が判らなくなってしまう。

史跡の表示板石が見えますか?

 林の中をよく見ると一抱えもある石が並んでいるが、草に隠れて良く判らない。しかし千数百年前に、この地に人が居て、有喜の普賢岳から何時上がるか判らない烽火を待っていたと思うと気が遠くなりそうな思いになる。

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